中島たい子『LOVE & SYSTEMS』感想―4つのユートピア/ディストピアを見つめる

あらすじ

多くの国が人口減少による衰退の危機を迎えたあとの、近未来の話。
国によって決められた相手との結婚を控える女性。
荒廃した国で、移民の女性との結婚を楽しみにする老齢の男性。財産を築きそうな恋人との結婚を狙う、その娘。
嫉妬も恨みもない「地上の楽園」で暮らす男女カップル。
婚姻制度のない国で産まれ育ち、世界の「恋愛」を取材する男性記者。
記者の目を通じて、4つの国と地域の個性的な「システム」、そこで暮らす人たちと彼自身の「愛」が浮き彫りになる。

恋愛小説としての感想

章ごとに舞台を変わり、場面によって視点人物も異なるものの、これは1つのラブストーリーだ。
4つの章は1つの物語としてつながっており、主人公(主な視点人物)は男性記者「ロウド」、ヒロインは取材相手として彼の目の前に現れる「アマナ」である。
2人は正反対の制度と価値観をもつ国に生まれ、特にアマナは自由な結婚、自由な渡航ができない。ロウドもさる事情で、アマナの国への入国が制限されてしまう。
どんな国や制度(=障害、障壁)であっても抑えられない、強い愛は存在する――
そういうラブストーリーとしてみればさして斬新な主題ではないかもしれないし、ラストもちょっと力技っぽく感じた。
けれど、いやお前らこの先大丈夫かよ、という懸念をも吹き飛ばすような疾走感がイイ。
途中の章にある、あるカップルにとって苦難の道のりの端緒となる事件と似た出来事が起きているのだけれど、それが今度は輝かしい(苦労はあるだろうけれど)道のりのきっかけになっているのもまたカタルシス。

ディストピア小説としての感想

私はこの小説に求めるのは、ロウドとアマナのラブストーリーよりも架空の国・制度のありようと人々の生活、心や価値観の変容のほうだ。

関連記事:中島たい子『LOVE & SYSTEMS』と村田沙耶香『殺人出産』―愛と生殖と家族にまつわる7つのユートピアあるいはディストピアを淡々と紹介

登場する4つの国・地域では、衰退の一途を辿る「J国」を除けば、国民は概ね幸せそうに暮らしている。
ただこれらをユートピア・ディストピアのいずれかまたはどちらでもないと考えるかは、読み手に委ねられている。

「アマナ」のN国――強固な婚姻・家族制度

婚姻・家族制度をより強固なものとした国。
男は仕事でお金を稼ぐことが仕事。作中で詳らかにはされていないが、受ける教育や職業選択の自由はあると思われる。
女は夫をサポートし、子を産み育てることが仕事。職業を持つものはほとんどいないようだ。男とは異なる教育機関で妻としての仕事や心構えを学ぶ。
国民はみな、政府機関「家族庁」のマッチングさせた相手と結婚する。自分で相手を選ぶことはできない。
制度教育のおかげか、家族間の愛着は強い。

ファーストネームは存在せず、持てるのはファミリーネームのみ。
家族は互いをオット、ツマ、ムスコ、チョージョなどと呼び合う。
システム導入時は反発も大きかったが、やがて定着した。

N国の人々は、国という身体を維持するために分裂する細胞のようなものだ。
労働は国を維持するため。子を産み育てるのは、労働力を作るため。つまり、N国における「家族」とは、国を維持するための組織の最小単位であるといえる。
というか、名前のありかたにも象徴されるように、「個」というものが認められていないようにすら感じられるのだ。
作中でも、「異国からあまりに不自由で前時代的にみられている」という旨の記述がある。

けれども国が選んだ相手との結婚を控える女性「ヤマノのムスメ」は、
「自分が選んだ相手が最適だとは限らない」
「好きな相手と結婚相手とは別」
「婚姻率・出生率が下がって国が衰退するくらいなら、不自由を強制するようなシステムを導入してでも繁栄を取り戻した状態の方が健康的」という旨の発言をする。

この話の初出は2010年だから、もう10年近く前になる。
当時の風潮からすれば、N国のシステムはただ「古くて窮屈なもの」だっただろう。
けれども2018年のいまは、
結婚にメリットを見出せず、結婚願望を持つ人が減ったから、自然な出会いでは結婚相手を見つけにくい(その暇もない)。
恋人の延長としての夫や妻よりも、家庭という組織を運営するビジネスパートナーとしての配偶者が欲しい。
可能なものなら、国でも一般企業でもなんでもいいから、自分にとって最適な相手を誰かに決めてもらいたい。
……という考えは珍しくない。
「ヤマノのムスメ」の「自分が選んだ相手が最適だとは限らない」「好きな相手と結婚相手とは別」という発言はきわめて現代的で、それを叶えるN国のシステムは、1周回って先進的なのだ。
結婚が強制されるもの、あるいはしたほうが俄然有利なものであるならば、私だってこのシステムのメリットを享受したい。

けれども、その状態が「健康的」かどうかは、私にとっては怪しい。
自国に大した愛着もなく、生にも後ろ向きな立場からすれば、国が衰退すること自体はべつに構わないのだ。
国が国民の婚姻・出生を必要とするけれども、その行為の主体となるはずの国民にとって価値を感じられなければ、しなくたっていい。結果、国が滅んだっていい。
でも、そのせいで自分が苦労するのは嫌だ。お金はあった方がいい。ジジババになってまで働きたくない。
みながそう思えば、結局は「苦労しないために、国を維持繁栄させるしかない」という方針を採らざるを得ないというだけのことなのだ。

作中では、結婚を間近に控えた若者が亡命する事件が起きたこと、職業選択の自由がないため好きなことを諦めざるを得なかった女性の存在などが言及されている。
いくら婚姻・出産・子育て、性別による完全分業のシステムがあり、それを絶対とする教育がなされても、全員がそれに痛みなく適応していくわけではないということだ。
犠牲になるのは、あるいはシステムに抗おうとするのは、システムをはみ出すほどの「愛」を持ってしまった人だけではない。
N国にはそのほかにも、結婚したくない人、LGBT当事者、仕事より家事や育児に向いている男性などが存在するだろう。
そうした心のありかたを押さえつけるのではなく、自覚する間もなく、痛みなく消し去る完璧な教育(洗脳?)ができるのであれば、N国もユートピアといえるのかもしれない。

「ナコの木」のパングゥ――理性で維持される地上の楽園

章の順番としてはJ国を舞台にした「トレニア」が先なのだけれど、こちらは最後に回したい。

パングゥは、外からは正確な実体の知られておらず、「地上の楽園」「世界で一番幸せな国」と噂される地域。
かといって、訪問者や移住者を排除するわけではなく、住民はみな一様に親切で穏やかだ。
この地域には、法律も役所も貨幣もない。国境も制度もない。
人々の意思決定は、有志の「ミーティング」で行われる。
共同体を維持するのは、自然な心の働きと理性だ。
食料や生活用品は主に自給自足で賄われ、住民は物々交換(サービス含む)で生活している。

でも「地上の楽園」とは、パングゥを知らない人が勝手に呼んでいるだけで、実態はそうでないことが明るみになっていく。
「みな一様に親切で穏やか」「自然な心の働きと理性」――ここに、パングゥを一見「楽園」のように見せている鍵は、ここにある。
人間は「みな一様」というものではないし、「自然な心の働き」には本来、怒りや嫉妬、独占欲といったおよそパングゥにそぐわない感情もある。パングゥの住民も、例外ではない。
つまり、住民は親切で穏やかで理性的な「ふり」をしているだけ。要は、パングゥを平和たらしめているのは、住民の我慢と抑圧なのだ。
そうすることが暗黙の了解で、明文化されていない法律でありシステムだ。
それに耐えられなければ、「旅に出る」だけ。
誰にでも優しい「楽園」などは存在しないということを、パングゥはわからせてくれる。

「ヒメジョオン」のF国――徹底した個人主義

婚姻制度を廃止し、子育てを国が請け負うことで、最も成功した国。
子はみな専門機関「エコリシテ」に預けられ、成人するまで育てられる。そのため、産んだ女性もすぐに仕事に復帰できる。
子の両親がその後別れたり、べつの相手と子を作ったりするのも一般的だ。
親たちは、子育てはしなくても、自身の子が社会の優秀な働き手になることを望んでいる。
国民にファミリーネームはなく、ファーストネームだけが存在する。

個人がネットで「こうであればいいのに」と言っているのをよく見かけるようなシステムである。
私も過去記事で、これに近いシステムについて言及(というか妄想)している。

異世界にでも行かなければ、私は子を産めも持てもしない

親はしんどい、子育ては無理、でも夫はいないと嫌だという私にとっては、なんとも悩ましいシステムであって、上記記事を書くのにも随分悩んだ記憶がある。

作中のF国では、子供は例外なくエコリシテに預けられ、親に「自分で育てる」という選択肢はない。
エコリシテでは、1人のスタッフが複数の子供を見る。スタッフはあくまで仕事、彼らにとってはどの子供も無数の仕事相手の1人でしかない。1対1の強い愛着関係を築くことはできない。子供は、幼いうちから「自立」を強いられているようなものなのだ。
それに飢餓感を感じる人がいるのは、大人も一緒で、自身の子にシステムからはみ出す強い愛情を持ち、ともに暮らしたがる親もいるのだ。

エコリシテに預けた子に会うか会わないか、愛情を持つか持たないかは個人の自由で、なんなら産んで預けたらサヨナラでもいいはずだ。
しかしF国の大人の多くは、自身の子が社会の優秀な働き手になることを望んでいる。
もしかしたらその気持ちは、親が子に抱く愛情の代替になっているのかもしれない。

もう1つ気になるのは、婚姻制度が廃止され、子育てが国の仕事になったことにより、「子を為す」ことが却って義務化されたように感じられることだ。
一般的にF国の人々は子をなすことを国民の重要な任務として受け容れているようだけれども、妊娠~出産自体が命を掛けた過酷な行為であることは変わりない(医療の発達により、そのあたりの負荷が軽くなったという記述はない)。子育てという仕事がなくなったところで、出産はしたくないという人もいないとは限らないし、そもそも育てられないのなら産みたくないという人もいるかもしれない。

上記に加え、労働に向いていない人というのもいる。
結局我慢を強いられる人がいるというのは、F国も同じだ。
けれどもF国には自由というのもある。だからこそ、合わないなら出て行くしかない。

「トレニア」のJ国――絶望的な未来

人口減に対し、移民で補うくらいの対症療法的なやり方でしか対策してこなかった国。
ここだけははっきりと、「状況の悪い国」として描かれている。
労働力はごっそり減り、経済は困窮し、かつての大都市も廃墟化。政治もまともに機能していない。
社会保障などあるわけもなく、老人でさえも生きるために日銭を稼ぐしかない。
結婚は誰でもできるが、実際にするのは、財産を持っている者ばかり。その目的も、家族を作るとか好きな人と暮らしたいとかではなく、財産を守るということだけだ。

J国は言うまでもなく、いまの日本を放っておいた場合の「近未来」だ。
正直言って、リアルであるぶん、どんなディストピアよりも恐ろしい。
絶望溢れる国のなかで、作中の老齢男性「史郎」と移民女性「トレニア」のカップルは明るく描かれる。
けれどもそんなものは、突きつけられた近未来への恐怖の前では、0.1秒の瞬きでしかないのだ。

最後に

アマナ(甘菜)、トレニア(夏菫)、ヒメジョオンなど、本作では「花」がキーアイテムとして使われている。
花には個性があるけれど、共通して象徴するのは美しさと儚さだ。それは愛の姿でもあり、民族性や時代によって変わる国家やシステムの姿でもある。
そして花は枯れるけれど、また育つ。それもまた、変容する愛の形であり、手探りながらも成長するシステムのありようなのだろう。

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