あの人が「断言」することができるのは、「中身」が死んでるからかもしれない

話し方。服装。趣味嗜好。価値観。
人のありさまは、環境や周囲の人、自分の身に起こった出来事、接している情報によって変化する。
けれども同じ状況に置かれ続けた複数の人間が、完全に同じ人格になるわけではない。
人のもっと奥のほうにある「何か」――おそらく中身とか軸とか芯とか言っていいだろうもの――のありようは、人それぞれだからだ。
(以下、この「何か」を「中身」と呼ぶ。この「中身」も環境などの影響を受けて変化しうる)

一般的に、「中身」が強くしっかりしているということは、よしとされている。
臆さず、断定的な物言いをすれば、そのように見えるだろう。
けれども、断定的な物言いをする人すべてが、「中身」を有するとは限らない。

「中身」はすべての人間にあるのか。
そもそも、「中身」とはなにか。
「中身」のありようは、人にどう現れるのか。
「中身」はどうあるのがいいのか。

少しだけ真面目に、考えさせてもらいたい。

なぜあの人は「断言」できるのか

さて、この記事を書くに至ったきっかけは、私自身がこの記事を書いたことだ。

結婚前の私に母が浴びせた最悪の台詞4つと、そこから見えてくること
ここで紹介した4つの台詞は、母の言葉を記憶の限り忠実に再現したものだ。
4つのうち2つが、「絶対に~する」「~に決まってる」と強い断定口調。
さらに1つは、「~しなさいよ」という命令形だ。

感情が昂ぶっていたから、ということを差し引いても、私は特にこの断定口調が不思議だった。
なぜこの人は、他人の、しかも不確定な未来について、断定的な言い方ができるのだろう。
占い師が「アンタ、死ぬわよ」と言うのでもあるまいに。

断言できない/できる理由は

まず先に、「~と思う」「~だろう」など、断定的な言い方をしない場合について考えてみる。
断定的な言い方ができない理由は、複数の可能性が想定できるが1つに決めることができないから、そして正解が1つも思いつけないから、の2つだろう。
後者は一見ダメそうだが、少なくとも「わからない」という自覚はある。無知の知。
前者だって、1つに絞ることはできなくても、異なる複数の立場になり、考え、疑い、視点を変えることができるという証拠だ。
1つに決めきれないのは、それが不正解のとき、誰かに迷惑をかけることや責任を取らされること、そして間違いそのものが怖いからだ。

上記を踏まえると、断定的な言い方をする場合はおそらくこうだ。
(複数の可能性を想定したうえで、答えを1つに決めることができる人については、ここでは考えない)
世間や周りの人が言っていたことを、そのまま自分の頭に溜め込み、好きなタイミングで丸ごと放り投げる。
すなわち、疑ったり、それまで培ってきた知識や経験との比較、いいところ・悪いところの取捨選択などといった、自分なりの咀嚼をしないということだ。
みんなそうしてるから、○○さんが言っていたから、TVで言っていたから、正しい。
断言したことがたとえ間違っていても、もとは自分以外の他人が考え出したことだから、責任を感じる必要はない。
たぶん、そういった自覚は希薄だろう。でもきっと、彼ら・彼女らが「断言」できるのはこういう理由だ。

断定的な言い方ができない人。断定的な言い方ができる人。
両者の最も大きな違いは、「考えているか」「考えていないか」だ。
私が称した「中身」とは、その考える「主体」だ。

「中身」は誰にでもあるのか

あるんじゃないかなー、と私は思っている。
一見ないようでも、「中身」の存在に気づいていない。
「中身」をもって考えるのが苦しくて、押し殺す。
考え方そのものが、昭和的だったりマス的だったりして、考えているように見えない、など。
「中身」があることに気づかないまま、一生を終える人もいるだろう。

「中身」の強さも人それぞれだ。
得意不得意はあるし、考えることを長らくやめていたら鈍っている。
「中身」の強さ=考える体力、と言い換えてもいいかもしれない。

断言できない人が悪いわけじゃないし、断言できる人は楽だ

自分の意見に自信が持てない、断言できない、迷ってしまう。
こうした態度は、優柔不断で軟弱と思われ、低くみられがちだ。
けれど、軸がないとか弱いというわけではない。
迷うのは、寧ろ「中身」を持っていて、ちゃんと考えているという証拠だ。

逆に断定的な物言いができる人は、全員が「自分を持っている人」「意見がしっかりしている人」というわけではない。
「中身」がないから断言できる場合もあるのだ。
そして思考によって生じるストレスもなくなるし、行動にも移りやすいから、少なくとも当人は楽だろう。

まとめ――そりゃあらゆる可能性を想定したうえで「これがベスト」と判断できるようになるのがいいけど

そんなことができるのは、ごく一握りの人たちだけ。
私たち凡人は、あらゆる可能性を想定しても、どれがベストかわからないまま、少しでもマシそうな選択肢を、おどおどと選び取り、「おそらく」とか「だろう」という言葉を味方にして述べているのだ。

最初の問いへの答えをまとめてみる。

Q. 「中身」はすべての人間にあるのか。
―たぶんある。しかし、ないように見える人もいる。その事情はさまざま。

Q. そもそも、「中身」とはなにか。
―自己をあらゆる立場に置きながら、多角的に考えること。

Q. 「中身」のありようは、人にどう現れるのか。
―ものの言い方や決め方などが、その一例。断言したり、しなかったり。

Q. 「中身」はどうあるのがいいのか。
―あらゆる可能性を想定したうえで「これがベスト」と確信できるのが1番。
凡人は、考えるだけマシ。考えない人も、当人の心は軽いだろう。

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