中島たい子『LOVE & SYSTEMS』感想―4つのユートピア/ディストピアを見つめる

あらすじ

多くの国が人口減少による衰退の危機を迎えたあとの、近未来の話。
国によって決められた相手との結婚を控える女性。
荒廃した国で、移民の女性との結婚を楽しみにする老齢の男性。財産を築きそうな恋人との結婚を狙う、その娘。
嫉妬も恨みもない「地上の楽園」で暮らす男女カップル。
婚姻制度のない国で産まれ育ち、世界の「恋愛」を取材する男性記者。
記者の目を通じて、4つの国と地域の個性的な「システム」、そこで暮らす人たちと彼自身の「愛」が浮き彫りになる。

恋愛小説としての感想

章ごとに舞台を変わり、場面によって視点人物も異なるものの、これは1つのラブストーリーだ。
4つの章は1つの物語としてつながっており、主人公(主な視点人物)は男性記者「ロウド」、ヒロインは取材相手として彼の目の前に現れる「アマナ」である。
2人は正反対の制度と価値観をもつ国に生まれ、特にアマナは自由な結婚、自由な渡航ができない。ロウドもさる事情で、アマナの国への入国が制限されてしまう。
どんな国や制度(=障害、障壁)であっても抑えられない、強い愛は存在する――
そういうラブストーリーとしてみればさして斬新な主題ではないかもしれないし、ラストもちょっと力技っぽく感じた。
けれど、いやお前らこの先大丈夫かよ、という懸念をも吹き飛ばすような疾走感がイイ。
途中の章にある、あるカップルにとって苦難の道のりの端緒となる事件と似た出来事が起きているのだけれど、それが今度は輝かしい(苦労はあるだろうけれど)道のりのきっかけになっているのもまたカタルシス。

ディストピア小説としての感想

私はこの小説に求めるのは、ロウドとアマナのラブストーリーよりも架空の国・制度のありようと人々の生活、心や価値観の変容のほうだ。

関連記事:中島たい子『LOVE & SYSTEMS』と村田沙耶香『殺人出産』―愛と生殖と家族にまつわる7つのユートピアあるいはディストピアを淡々と紹介

登場する4つの国・地域では、衰退の一途を辿る「J国」を除けば、国民は概ね幸せそうに暮らしている。
ただこれらをユートピア・ディストピアのいずれかまたはどちらでもないと考えるかは、読み手に委ねられている。

「アマナ」のN国――強固な婚姻・家族制度

婚姻・家族制度をより強固なものとした国。
男は仕事でお金を稼ぐことが仕事。作中で詳らかにはされていないが、受ける教育や職業選択の自由はあると思われる。
女は夫をサポートし、子を産み育てることが仕事。職業を持つものはほとんどいないようだ。男とは異なる教育機関で妻としての仕事や心構えを学ぶ。
国民はみな、政府機関「家族庁」のマッチングさせた相手と結婚する。自分で相手を選ぶことはできない。
制度教育のおかげか、家族間の愛着は強い。

ファーストネームは存在せず、持てるのはファミリーネームのみ。
家族は互いをオット、ツマ、ムスコ、チョージョなどと呼び合う。
システム導入時は反発も大きかったが、やがて定着した。

N国の人々は、国という身体を維持するために分裂する細胞のようなものだ。
労働は国を維持するため。子を産み育てるのは、労働力を作るため。つまり、N国における「家族」とは、国を維持するための組織の最小単位であるといえる。
というか、名前のありかたにも象徴されるように、「個」というものが認められていないようにすら感じられるのだ。
作中でも、「異国からあまりに不自由で前時代的にみられている」という旨の記述がある。

けれども国が選んだ相手との結婚を控える女性「ヤマノのムスメ」は、
「自分が選んだ相手が最適だとは限らない」
「好きな相手と結婚相手とは別」
「婚姻率・出生率が下がって国が衰退するくらいなら、不自由を強制するようなシステムを導入してでも繁栄を取り戻した状態の方が健康的」という旨の発言をする。

この話の初出は2010年だから、もう10年近く前になる。
当時の風潮からすれば、N国のシステムはただ「古くて窮屈なもの」だっただろう。
けれども2018年のいまは、
結婚にメリットを見出せず、結婚願望を持つ人が減ったから、自然な出会いでは結婚相手を見つけにくい(その暇もない)。
恋人の延長としての夫や妻よりも、家庭という組織を運営するビジネスパートナーとしての配偶者が欲しい。
可能なものなら、国でも一般企業でもなんでもいいから、自分にとって最適な相手を誰かに決めてもらいたい。
……という考えは珍しくない。
「ヤマノのムスメ」の「自分が選んだ相手が最適だとは限らない」「好きな相手と結婚相手とは別」という発言はきわめて現代的で、それを叶えるN国のシステムは、1周回って先進的なのだ。
結婚が強制されるもの、あるいはしたほうが俄然有利なものであるならば、私だってこのシステムのメリットを享受したい。

けれども、その状態が「健康的」かどうかは、私にとっては怪しい。
自国に大した愛着もなく、生にも後ろ向きな立場からすれば、国が衰退すること自体はべつに構わないのだ。
国が国民の婚姻・出生を必要とするけれども、その行為の主体となるはずの国民にとって価値を感じられなければ、しなくたっていい。結果、国が滅んだっていい。
でも、そのせいで自分が苦労するのは嫌だ。お金はあった方がいい。ジジババになってまで働きたくない。
みながそう思えば、結局は「苦労しないために、国を維持繁栄させるしかない」という方針を採らざるを得ないというだけのことなのだ。

作中では、結婚を間近に控えた若者が亡命する事件が起きたこと、職業選択の自由がないため好きなことを諦めざるを得なかった女性の存在などが言及されている。
いくら婚姻・出産・子育て、性別による完全分業のシステムがあり、それを絶対とする教育がなされても、全員がそれに痛みなく適応していくわけではないということだ。
犠牲になるのは、あるいはシステムに抗おうとするのは、システムをはみ出すほどの「愛」を持ってしまった人だけではない。
N国にはそのほかにも、結婚したくない人、LGBT当事者、仕事より家事や育児に向いている男性などが存在するだろう。
そうした心のありかたを押さえつけるのではなく、自覚する間もなく、痛みなく消し去る完璧な教育(洗脳?)ができるのであれば、N国もユートピアといえるのかもしれない。

「ナコの木」のパングゥ――理性で維持される地上の楽園

章の順番としてはJ国を舞台にした「トレニア」が先なのだけれど、こちらは最後に回したい。

パングゥは、外からは正確な実体の知られておらず、「地上の楽園」「世界で一番幸せな国」と噂される地域。
かといって、訪問者や移住者を排除するわけではなく、住民はみな一様に親切で穏やかだ。
この地域には、法律も役所も貨幣もない。国境も制度もない。
人々の意思決定は、有志の「ミーティング」で行われる。
共同体を維持するのは、自然な心の働きと理性だ。
食料や生活用品は主に自給自足で賄われ、住民は物々交換(サービス含む)で生活している。

でも「地上の楽園」とは、パングゥを知らない人が勝手に呼んでいるだけで、実態はそうでないことが明るみになっていく。
「みな一様に親切で穏やか」「自然な心の働きと理性」――ここに、パングゥを一見「楽園」のように見せている鍵は、ここにある。
人間は「みな一様」というものではないし、「自然な心の働き」には本来、怒りや嫉妬、独占欲といったおよそパングゥにそぐわない感情もある。パングゥの住民も、例外ではない。
つまり、住民は親切で穏やかで理性的な「ふり」をしているだけ。要は、パングゥを平和たらしめているのは、住民の我慢と抑圧なのだ。
そうすることが暗黙の了解で、明文化されていない法律でありシステムだ。
それに耐えられなければ、「旅に出る」だけ。
誰にでも優しい「楽園」などは存在しないということを、パングゥはわからせてくれる。

「ヒメジョオン」のF国――徹底した個人主義

婚姻制度を廃止し、子育てを国が請け負うことで、最も成功した国。
子はみな専門機関「エコリシテ」に預けられ、成人するまで育てられる。そのため、産んだ女性もすぐに仕事に復帰できる。
子の両親がその後別れたり、べつの相手と子を作ったりするのも一般的だ。
親たちは、子育てはしなくても、自身の子が社会の優秀な働き手になることを望んでいる。
国民にファミリーネームはなく、ファーストネームだけが存在する。

個人がネットで「こうであればいいのに」と言っているのをよく見かけるようなシステムである。
私も過去記事で、これに近いシステムについて言及(というか妄想)している。

異世界にでも行かなければ、私は子を産めも持てもしない

親はしんどい、子育ては無理、でも夫はいないと嫌だという私にとっては、なんとも悩ましいシステムであって、上記記事を書くのにも随分悩んだ記憶がある。

作中のF国では、子供は例外なくエコリシテに預けられ、親に「自分で育てる」という選択肢はない。
エコリシテでは、1人のスタッフが複数の子供を見る。スタッフはあくまで仕事、彼らにとってはどの子供も無数の仕事相手の1人でしかない。1対1の強い愛着関係を築くことはできない。子供は、幼いうちから「自立」を強いられているようなものなのだ。
それに飢餓感を感じる人がいるのは、大人も一緒で、自身の子にシステムからはみ出す強い愛情を持ち、ともに暮らしたがる親もいるのだ。

エコリシテに預けた子に会うか会わないか、愛情を持つか持たないかは個人の自由で、なんなら産んで預けたらサヨナラでもいいはずだ。
しかしF国の大人の多くは、自身の子が社会の優秀な働き手になることを望んでいる。
もしかしたらその気持ちは、親が子に抱く愛情の代替になっているのかもしれない。

もう1つ気になるのは、婚姻制度が廃止され、子育てが国の仕事になったことにより、「子を為す」ことが却って義務化されたように感じられることだ。
一般的にF国の人々は子をなすことを国民の重要な任務として受け容れているようだけれども、妊娠~出産自体が命を掛けた過酷な行為であることは変わりない(医療の発達により、そのあたりの負荷が軽くなったという記述はない)。子育てという仕事がなくなったところで、出産はしたくないという人もいないとは限らないし、そもそも育てられないのなら産みたくないという人もいるかもしれない。

上記に加え、労働に向いていない人というのもいる。
結局我慢を強いられる人がいるというのは、F国も同じだ。
けれどもF国には自由というのもある。だからこそ、合わないなら出て行くしかない。

「トレニア」のJ国――絶望的な未来

人口減に対し、移民で補うくらいの対症療法的なやり方でしか対策してこなかった国。
ここだけははっきりと、「状況の悪い国」として描かれている。
労働力はごっそり減り、経済は困窮し、かつての大都市も廃墟化。政治もまともに機能していない。
社会保障などあるわけもなく、老人でさえも生きるために日銭を稼ぐしかない。
結婚は誰でもできるが、実際にするのは、財産を持っている者ばかり。その目的も、家族を作るとか好きな人と暮らしたいとかではなく、財産を守るということだけだ。

J国は言うまでもなく、いまの日本を放っておいた場合の「近未来」だ。
正直言って、リアルであるぶん、どんなディストピアよりも恐ろしい。
絶望溢れる国のなかで、作中の老齢男性「史郎」と移民女性「トレニア」のカップルは明るく描かれる。
けれどもそんなものは、突きつけられた近未来への恐怖の前では、0.1秒の瞬きでしかないのだ。

最後に

アマナ(甘菜)、トレニア(夏菫)、ヒメジョオンなど、本作では「花」がキーアイテムとして使われている。
花には個性があるけれど、共通して象徴するのは美しさと儚さだ。それは愛の姿でもあり、民族性や時代によって変わる国家やシステムの姿でもある。
そして花は枯れるけれど、また育つ。それもまた、変容する愛の形であり、手探りながらも成長するシステムのありようなのだろう。

中島たい子『LOVE & SYSTEMS』と村田沙耶香『殺人出産』―愛と生殖と家族にまつわる7つのユートピアあるいはディストピアを淡々と紹介

ディストピア小説が好きだ。
けれどもそれに気づいたのはごく最近のことで、たくさんの作品を読んだというわけではない。
とはいえ、好きな作品や世界観はいくつかある。
今回紹介するのは、以下の作品に登場する7つの国あるいは世界だ。

中島たい子『LOVE & SYSTEMS』幻冬舎(Amazonのページにリンクします)

村田沙耶香『殺人出産』講談社(Amazonのページにリンクします)

2作品の作風や主題はもちろん異なるが、恋愛・生殖・家族にまつわる制度やそこに暮らす人々の価値観が異なる複数の国や世界線を描き、読み手に大きなインパクトを与えているという点では共通している。
私はこの記事のタイトルで「ユートピアあるいはディストピア」という言葉を使っている。
これから紹介する世界が、そのほとんどが読み手によって、ユートピアとみなすかディストピアと考えるか、どちらでもないと感じるか異なるからだ。同じ1人の読み手でも、1回目に読むのと2回目に読むのとでは、捉え方が変わるかもしれない。

作家たちも、ユートピアまたはディストピアのどちらかと決めつけるような書き方をしていない。おそらくどちらでもあり、どちらでもないと考えているのだろう。
(村田沙耶香なら『消滅世界』も有名だが、こちらの作品についても今後、本記事への加筆修正または別の記事で、触れていきたい)

中島たい子『LOVE & SYSTEMS』の4つの国

4章から成り、1人の男性記者が各国・地域での取材活動で出会う、そこで生きる人たちや彼自身の「愛」が描かれている。
登場するのは、N国、J国、パングゥ、F国という4つの国と地域だ。

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中島たい子『LOVE & SYSTEMS』感想―4つのユートピア/ディストピアを見つめる

多くの国が人口減による衰退の危機に瀕したあとの世界。
N国とF国はそれぞれ対照的なシステムを作り上げ、繁栄を取り戻した。
J国は有効な対策をせず、衰退の一途を辿っている。
パングゥはある国にある独立自治体地域で、システムらしいシステムがない。「自然な心の動きと理性」で成り立っている。

「アマナ」のN国――強固な婚姻・家族制度

婚姻・家族制度をより強固なものとした国。
男は仕事でお金を稼ぐことが仕事。作中で詳らかにはされていないが、受ける教育や職業選択の自由はあると思われる。
女は夫をサポートし、子を産み育てることが仕事。職業を持つものはほとんどいないようだ。男とは異なる教育機関で妻としての仕事や心構えを学ぶ。
国民はみな、政府機関「家族庁」のマッチングさせた相手と結婚する。自分で相手を選ぶことはできない。
制度教育のおかげか、家族間の愛着は強い。

ファーストネームは存在せず、持てるのはファミリーネームのみ。
家族は互いをオット、ツマ、ムスコ、チョージョなどと呼び合う。
システム導入時は反発も大きかったが、やがて定着した。

「トレニア」のJ国――絶望的な未来

人口減に対し、移民で補うくらいの対症療法的なやり方でしか対策してこなかった国。
ここだけは比較的はっきりと「ディストピア」として描かれている。
労働力はごっそり減り、経済は困窮し、かつての大都市も廃墟化。政治もまともに機能していない。
社会保障などあるわけもなく、老人でさえも生きるために日銭を稼ぐしかない。

結婚は誰でもできるが、実際にするのは、財産を持っている者ばかり。その目的も、家族を作るとか好きな人と暮らしたいとかではなく、財産を守るということだけだ。

放っておけば日本もこうなる、という意味では「ディストピア」でなくただの「近未来」ともいえる。

「ナコの木」のパングゥ――理性で維持される地上の楽園

外からは正確な実体の知られておらず、「地上の楽園」「世界で一番幸せな国」と噂される地域。
かといって、外から来る人を排除するわけではなく、住民はみな一様に親切で穏やかだ。
この地域には、法律も役所も貨幣もない。国境も制度もない。
人々の意思決定は、有志の「ミーティング」で行われる。
共同体を維持するのは、自然な心の働きと理性だ。
食料や生活用品は主に自給自足で賄われ、住民は物々交換(サービス含む)で生活している。

「ヒメジョオン」のF国――徹底した個人主義

婚姻制度を廃止し、子育てを国が請け負うことで、最も成功した国。
子は一様に専門機関に預けられ、成人するまで育てられる。そのため、産んだ女性もすぐに仕事に復帰できる。
両親がその後別れたり、べつの相手と子を作ったりするのも一般的だ。
親たちは、子育てはしなくても、自身の子が社会の優秀な働き手になることを望んでいる。
国民にファミリーネームはなく、ファーストネームだけが存在する。

村田沙耶香『殺人出産』の3つの世界

こちらはそれぞれが独立した4つの物語で、舞台はいずれも現代~近未来の日本だ。
3編目『清潔な結婚』は、特有のシステムや価値観はなく、現代日本においても起こり得る出来事が描かれているため、今回は扱わない。

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【書評】村田沙耶香『殺人出産』(仮・準備中)

「殺人出産」――10人産めば、1人殺せる

人口維持のため、「殺人出産システム=10人産めば1人殺していい」が導入された世界。
殺人出産を行う人は「産み人」と称され、崇められる。男性でも人工子宮をつけて「産み人」になることができる。
「産み人」として10人産むことをせずに殺人を犯した者は、「産刑」という、一生牢獄のなかで出産をさせられる超過酷な厳罰が与えられる。

もちろん、一般人が出産をすることもある。ただし妊娠は人工授精によってなされ、セックスは愛情表現や快楽のためだけの行為になっている。
子が欲しい人は人工授精による出産か、産み人から産まれた子を引き取ることになる。
「殺人出産システム」が導入されてまだ30年ほどのようなので、システムやシステム導入による家族形態や価値観の変化、世代間の乖離に戸惑うような描写もみられる。

「トリプル」――3人で恋愛

10代・20代を中心に、3人での交際が広まりつつある世界。
(3人での交際が当たり前というわけではないので、ユートピアとかディストピアと呼ぶのは微妙かもしれない)
交際している3人を「トリプル」と呼ぶ。
キスもセックスも3人でして、そのやり方はカップルの場合と異なる。
一方でカップルで交際する若い子もいるし、トリプルという交際形態を良く思わない人もいる。

「余命」――好きなだけ生き、死にたいときに死ねる

医療の発達により「死」がなくなった世界。
「死」はそれぞれが「そろそろかな」と思ったときにするものになった。
若いうちに死を選ぶ人もいれば(子供でも自由に死ねる)、何百年でも生きようとする人もいる。
死に方も死に場所も自由。薬で楽に死ぬこともできるし、苦しい死に方を選んだっていい。
けれども、「死に方や死に場所に人間性やセンスが出る」と、残される人の目を気にする者も多いようだ。

ユートピアかディストピアか、正解はない

作家たちは、これはユートピアです、こっちはディストピアです、という提示をしていないし、読み手にどちらか判断するよう求めてもいない。
けれどもこの2冊に限らずディストピア小説に出会った読み手は、この国はユートピアでその世界はディストピアで、あれはどっちでもなくて……と自分なりのジャッジをし、自分にとって最高の世界を考えることだろう。思い入れのある題材ならなおさらだ。
そしてある読み手は新しいユートピアあるいはディストピアを考え出し、ある読み手は世界の見方を少しだけ変えるのだろう。

「女は言葉で男を殺す」どころか、自分も元夫も殺そうとしていた話

中村うさぎ『愛という病』という本を、家の本棚にあったので読んでみた。

中村うさぎ『愛という病』新潮文庫(Amazonのページにリンクします)

10年以上のコラム集であって、古さを感じさせる表現や視点は確かにある。
けれども10年前の当時わからなくて、年月を過ごすあいだに忘れてしまったことや、もやっとしたまま置いてきてしまったもの。あるいは、意外と変わっていないこと。
そうしたことを思い起こし、自分の代わりに言葉にしてくれる。
なかには、放っておいてくれた方がよかったよというテーマもあれば、あれはそういうことだったのか! という気持ちにさせてくれる一文もあった。

そのなかで、「女は言葉で男を殺す」という一章が気になった。
またいつもの自己分析をしながら、その理由を書いていく。

「女は言葉で男を殺す」――という章について

ある裕福な一家で起きた、兄が妹を殺してバラバラにするという事件を考察する章だった。
兄はある職業に就く両親と同じ道を歩もうとしていたが、うまくいかず足踏みをしている最中。
妹は、両親と同じ職でもお嬢様コースでもない、全く別の道を選んでいた。
殺意の引き金になったのは、妹の兄に対する「生き方批判」だろうといわれていた。
「私には夢があるけど、お兄ちゃんには夢がない」「お兄ちゃんがしていることは、人のマネだ」
こうした妹の言葉は、兄にとって痛手だった。
兄は「必要以上に他者の期待に応えたがる(=親や世間の期待に応えられなければ自分には価値がないと思う優等生」であり、すなわち自分の価値観を持たず他人の価値観に過剰反応してしまう人だった。
だから妹の「人マネ」発言に、殺意を抱くほど激怒した……と、章の前半で中村氏は考察している。

ここで私は「あっ」と思った。

登場人物2人とも私だ

この妹は私で兄は元夫、いや、兄も私だ、と。

それこそこの本が発売された前後数年のことで、私はこの間、大学生活・就職・結婚を経験している。
生活のあらゆる面でうまくいかず、自分がとんでもない無能であることを突きつけられていた私は、その無能感や居場所のなさ、ついぞ何者にもなれず、自分1人では暮らしてさえいけないということに苦悩し、絶望していた。
当時の私はその苦悩と絶望のあまり死にたかったが、それを自覚できていなかった。と、今の私は推測している。
そのなかで踏み切った、性格・価値観などの点で「全く合わない」相手との結婚は、自傷行為のようなものだった。
けれども結婚1つで死ねるわけがなく、自分を「楽に」してくれない元夫に嫌悪・憎悪を抱くようになっていった。

このくだりは、こちらの記事が詳しい。

自己肯定感の低い人間は、好きでもない相手と結婚も離婚もするし家だって買う4

私の元夫への印象は惨憺たるもので、今もほとんど変わっていない。

文化的素養がなく、趣味が幼稚またはマス的。だから話していてもつまらない。
しかもその趣味は、妹から影響を受けたもの。およそ自分というものがない。
食べ物に賎しく、知性や品性を感じない。
考え方が昭和的。人生観が甘すぎる。
そのくせ自信に満ちあふれているのが、腹立たしい。

結婚生活後半から末期にかけて、私は夫のことをそう考え、時にはその一部をマイルドな言葉に置き換え、本人にぶつけた。
(なにか安全弁のようなものが働いて、思いつく限りの残酷な言葉を吐ききることはできなかった)
「没個性的でつまらない」「主体的に考えることなく、親の期待に添う道や先生に提示された道を、のうのうと歩いてきた」
といった具合に。
自分のことを棚に上げてというか、寧ろこれは自分に対する評価でもあった。
自分の短所を勝手に元夫に投影し、自分の代わりに元夫に対して攻撃的な感情を抱いていたのだ。

特に元夫の方からも嫌われ出した結婚生活末期、私は元夫に対して呪詛をぶつけ、
「あわよくばショックで心停止か自殺でもしないかな」
と本気で考えていた。
逆上した元夫に、自分のほうが怪我させられたり殺されたりするのもアリだと思った。それで元夫の人生は少なからず狂うからだ。
(このとき、死にたいという自覚はまだなかった。元夫の経歴に傷をつけるという意味でしか、死を捉えていなかった)
とにかく自分が相手以上に傷ついてでも、元夫に痛手を負わせたかったのだ。

著者の考察、続き

中村氏はこうも述べている。
実は相手への殺意を日常的に抱いていたのは、妹ではないかと。

どうも兄は妹に対して近親相姦的な願望を抱いていたらしいということと、また一説によると、妹は兄の暴力・暴言の的になっていて、両親もそれを黙認していたらしいということがその根拠になっている。
(いずれも不確定なことなので、氏の考察は憶測の域を出ないのだけど)

妹の兄に対する殺意というのは、弱者に甘んじることを拒絶し、抑圧者の暴力や性的視線に対して強烈な嫌悪・抵抗感に由来していた。
だから妹は、兄の暴力を受けながらも、死の間際まで兄への痛烈な非難をやめなかった。すなわち、言葉で兄を殺そうとしていたのではないか……というのだ。

この兄妹の結末は、かつて私が望んだ結末だ

少し強引ではあるが、この兄妹を、私のケースに置き換えてみると、

  • 兄=元夫(経済的にも物理的にも私よりずっと強い)そして、私自身が無能でつまらない人間であるという事実
  • 妹=元夫と内なる自己評価に苛まれたり反発したりする私(考える主体)

ということになる。
私の場合、件の妹と同じく弱者であること(元夫そして自分の無能さを受け容れること)は拒否している。
けれども元夫を攻撃する言葉は徹底的ではなかった。
また、元夫を攻撃することは、そこに投影されている自分を攻撃することでもあった。
たぶん、自分が死ぬ/相手を死なせることが怖かったとか、結婚生活における私の責が重くなり、離婚の際の条件が厳しくなるのを避けようとしていた。つまり望んでいないはずなのに、生き延びること、そして生き残った後のことも考えていたということだ。

だからだろうか。
元夫も少しは怒り、傷ついただろう。自覚して行動を改めようとしたこともあった。
でも元夫が根本から変わることはなかった(というか、3日で元に戻った)。
元夫の自己肯定感の高さゆえだろう、私の呪詛はたぶんどれも、元夫の痛手にはならなかった。
私は元夫を変えることも、殺すことも、犯罪者にすることもできなかった。
なんの根拠も見当たらない、なのに堅牢なまでの自己肯定感を前に、私のヤワな言葉は砕け散った。

私には当時の元夫の気持ちを慮り、「あのときはごめんね」と思うことができない。
当時のことを振り返るとまず先に、未だ対象のはっきりしない憎悪ばかりが湧いてくるからだ。
でもたぶん元夫は今も、かつて私も住んでいたあたりで、元気に生きているのだろう。
私のことなんか、忘れているはずだ。

私もまあ、生きてはいる。でも、幼い頃から「産まれない方が楽じゃね?」と考えているような、もともと生に否定的なタイプだ。
幸いにも、自分にはもったいないほどよき人と出会い、結婚までしてもらったけれど、元夫との結婚生活はまだ忘れられない。
こんな記事をいくつも書いていることがいい証拠だ。
今でもまだ、あわよくば自分の言葉で殺したいと思っている。
元夫も、あのとき死なせてあげられなかったあのときの自分自身も。

「女は言葉で男を殺す」のは、たぶん本当だ。でも一緒に自分をも殺したいというのは、欲張りすぎだろうか。

あの人が「断言」することができるのは、「中身」が死んでるからかもしれない

話し方。服装。趣味嗜好。価値観。
人のありさまは、環境や周囲の人、自分の身に起こった出来事、接している情報によって変化する。
けれども同じ状況に置かれ続けた複数の人間が、完全に同じ人格になるわけではない。
人のもっと奥のほうにある「何か」――おそらく中身とか軸とか芯とか言っていいだろうもの――のありようは、人それぞれだからだ。
(以下、この「何か」を「中身」と呼ぶ。この「中身」も環境などの影響を受けて変化しうる)

一般的に、「中身」が強くしっかりしているということは、よしとされている。
臆さず、断定的な物言いをすれば、そのように見えるだろう。
けれども、断定的な物言いをする人すべてが、「中身」を有するとは限らない。

「中身」はすべての人間にあるのか。
そもそも、「中身」とはなにか。
「中身」のありようは、人にどう現れるのか。
「中身」はどうあるのがいいのか。

少しだけ真面目に、考えさせてもらいたい。

なぜあの人は「断言」できるのか

さて、この記事を書くに至ったきっかけは、私自身がこの記事を書いたことだ。

結婚前の私に母が浴びせた最悪の台詞4つと、そこから見えてくること
ここで紹介した4つの台詞は、母の言葉を記憶の限り忠実に再現したものだ。
4つのうち2つが、「絶対に~する」「~に決まってる」と強い断定口調。
さらに1つは、「~しなさいよ」という命令形だ。

感情が昂ぶっていたから、ということを差し引いても、私は特にこの断定口調が不思議だった。
なぜこの人は、他人の、しかも不確定な未来について、断定的な言い方ができるのだろう。
占い師が「アンタ、死ぬわよ」と言うのでもあるまいに。

断言できない/できる理由は

まず先に、「~と思う」「~だろう」など、断定的な言い方をしない場合について考えてみる。
断定的な言い方ができない理由は、複数の可能性が想定できるが1つに決めることができないから、そして正解が1つも思いつけないから、の2つだろう。
後者は一見ダメそうだが、少なくとも「わからない」という自覚はある。無知の知。
前者だって、1つに絞ることはできなくても、異なる複数の立場になり、考え、疑い、視点を変えることができるという証拠だ。
1つに決めきれないのは、それが不正解のとき、誰かに迷惑をかけることや責任を取らされること、そして間違いそのものが怖いからだ。

上記を踏まえると、断定的な言い方をする場合はおそらくこうだ。
(複数の可能性を想定したうえで、答えを1つに決めることができる人については、ここでは考えない)
世間や周りの人が言っていたことを、そのまま自分の頭に溜め込み、好きなタイミングで丸ごと放り投げる。
すなわち、疑ったり、それまで培ってきた知識や経験との比較、いいところ・悪いところの取捨選択などといった、自分なりの咀嚼をしないということだ。
みんなそうしてるから、○○さんが言っていたから、TVで言っていたから、正しい。
断言したことがたとえ間違っていても、もとは自分以外の他人が考え出したことだから、責任を感じる必要はない。
たぶん、そういった自覚は希薄だろう。でもきっと、彼ら・彼女らが「断言」できるのはこういう理由だ。

断定的な言い方ができない人。断定的な言い方ができる人。
両者の最も大きな違いは、「考えているか」「考えていないか」だ。
私が称した「中身」とは、その考える「主体」だ。

「中身」は誰にでもあるのか

あるんじゃないかなー、と私は思っている。
一見ないようでも、「中身」の存在に気づいていない。
「中身」をもって考えるのが苦しくて、押し殺す。
考え方そのものが、昭和的だったりマス的だったりして、考えているように見えない、など。
「中身」があることに気づかないまま、一生を終える人もいるだろう。

「中身」の強さも人それぞれだ。
得意不得意はあるし、考えることを長らくやめていたら鈍っている。
「中身」の強さ=考える体力、と言い換えてもいいかもしれない。

断言できない人が悪いわけじゃないし、断言できる人は楽だ

自分の意見に自信が持てない、断言できない、迷ってしまう。
こうした態度は、優柔不断で軟弱と思われ、低くみられがちだ。
けれど、軸がないとか弱いというわけではない。
迷うのは、寧ろ「中身」を持っていて、ちゃんと考えているという証拠だ。

逆に断定的な物言いができる人は、全員が「自分を持っている人」「意見がしっかりしている人」というわけではない。
「中身」がないから断言できる場合もあるのだ。
そして思考によって生じるストレスもなくなるし、行動にも移りやすいから、少なくとも当人は楽だろう。

まとめ――そりゃあらゆる可能性を想定したうえで「これがベスト」と判断できるようになるのがいいけど

そんなことができるのは、ごく一握りの人たちだけ。
私たち凡人は、あらゆる可能性を想定しても、どれがベストかわからないまま、少しでもマシそうな選択肢を、おどおどと選び取り、「おそらく」とか「だろう」という言葉を味方にして述べているのだ。

最初の問いへの答えをまとめてみる。

Q. 「中身」はすべての人間にあるのか。
―たぶんある。しかし、ないように見える人もいる。その事情はさまざま。

Q. そもそも、「中身」とはなにか。
―自己をあらゆる立場に置きながら、多角的に考えること。

Q. 「中身」のありようは、人にどう現れるのか。
―ものの言い方や決め方などが、その一例。断言したり、しなかったり。

Q. 「中身」はどうあるのがいいのか。
―あらゆる可能性を想定したうえで「これがベスト」と確信できるのが1番。
凡人は、考えるだけマシ。考えない人も、当人の心は軽いだろう。

なぜあの人は「~してあげる」と言うのか、そして言い続ける人たちへ

AはBに○○してあげる。
話者は、Aがする○○が、Bにとって利益になると想定している。そして、Aの方がBより立場が上と考えている。
AもBもその場にいない誰かならまあいいとして、問題はAが話者でBが聞き手の場合。
私があなたに○○してあげる。
これを言われるのは嫌いだ。

この「~してあげる」は、日常的に言う人と言わないようにしている人がいる。
私は言わない派だ。
自分の見え方や言葉の印象について、少しでも気にしていれば、「私があなたに○○してあげる」などという言葉は出てこないはずだ、と思っている。

以前の記事でも、この「~してあげる」という言葉について、少し触れている。

結婚前の私に母が浴びせた最悪の台詞4つと、そこから見えてくること

「~してあげる」というと、「お肉に塩をよく揉み込んであげて」とか「お肌に化粧水をよく浸透させてあげて」といったモノを対象とした「~してあげる」もイラッとされがちらしい。
けれども今回、こちらは扱わない。
あくまで「子供に玩具を買ってあげる」とか「おばあちゃんに顔を見せに行ってあげる」など、対象が人のやつだ。

「~してあげる」とは何なのか

「あげる」は本来、「箱を棚にあげる」のように、ものを低い場所から高いほうへと動かすという意味をもち、そこから「敬う人に差し出す」という「やる/与える」の謙譲語としての意味をもつようになったという。
けれども近年は謙譲語としての性質が弱まり、「やる/与える」の丁寧語・美化語のような使われ方をしている傾向にある。
これは「やる」という語が、やや下品で粗暴な感じがして使いにくいという理由から来ているようだ。
補助動詞としての「(~して)あげる」と「(~して)やる」も同じ関係にある。

「~してあげる」にイラッとする理由

私の場合、「AがBに○○してやる」と誰かが言うのを聞くと、話者A・Bの関係が何であれ、イラッとするより驚きが先に来る。
その言葉のがさつさ、粗野さが先立っているからだ。
だからまず、怖いな、驚いたな、と思う。
恩着せがましさを感じたとしても、「この人はそういう人だから」と割り切れる。

先述のとおり、「~してあげる」は「~してやる」を少し上品風に言い換えたものだ。
だから「私があなたに○○してあげる」と言われれば、「~してやる」のときほどの驚きはない。
代わりに際立ってくるのは恩着せがましさだ。

「~してあげる(やる)」は、恩恵として行う意味を表している。
つまり「私があなたに○○してあげる」と言うとき、話者は自分の行為が聞き手にとっての利益になると信じて疑っていない。
考え方も置かれている状況も人それぞれなのだから、話者がよいと思っていることでも聞き手は迷惑に感じるかもしれない。それを考慮せず、「私がよいと思っていることは、相手もよいと思っているに決まっている」という傲慢さ・狭量さがその背景にある。
また、「~してあげる(やる)」を目上の相手に使うのが失礼であることからもわかるように、話者は聞き手を下に見ている。
そうして透けて見える恩着せがましさ(そして視野の狭さ)や侮蔑感が、敢えて「~してやる」という言葉を捨て、上品ぶって「~してあげる」を選んでいるのだから、却って鼻につくのだ。

ではどう言い換えればいいのか

自分を主語にする際、「(~して)あげる」などという余計な補助動詞をつけなければいいだけだ。
本動詞としての「あげる」なら、「贈る」とか「渡す」といった代替語がある。

なぜあの人は「~してあげる」と言うのか

私調べなんだけど、「~してあげる」って言う人って中年以上が多い気がする。
20代とかで使ってる人って、あまりいない印象。誰か調べてくれないかな。

以下に、「私があなたに○○してあげる」と言う人の気持ちを想像してみる。

  • 自分の優位を示したい または 優位が決定的で気を遣いたくない
    一種のマウンティングともいえそうだ。
    けれども、憤慨したり失望したりした聞き手に、却って見下されてしまいそうだ。
  • 自分の行為が相手の利益になることを強調したい(そして感謝されたい)
    話者の行為が聞き手の利益になるかどうかは、聞き手が決めることだ。
    そこに考えが至らないのは本当に情けないし、聞き手が話者の意図(善意らしきもの)を汲み取れないと思っているなら、それも聞き手への侮辱にあたる。
  • 単に習慣化しているだけ
    「~してあげる」という言葉がもたらす印象について顧みたことがないだけ。
    突っ込んでみると、たぶん「周りがみんな使ってるからいいでしょ?」「そんなこと気にする方がおかしい」「細かすぎ」「意地悪」と言うだろう。
  • 上記のうち、2または3パターンの複合型
    たぶんこれが一番多いと思う。

それでも「~してあげる」と言い続ける人へ

あなたたちは、私のように考える人を「気にしすぎ」と言うだろう。
でも、こちら側からすれば、あなたたちは「自分の言葉が相手にどんな印象を与えるかを顧みたことがない、いろいろ足りない人」だ。正直、いけないと思いつつも、こちらのほうがあなたたちを見下してしまいそうだ。
でもこちらは「気にするタイプ」だから、それが態度に出ないよう気をつけてしまうだろう。
見放されるのが嫌なら、自分で気づいて自分で直すしかない。

参考

日本語マナーの歳時記 第33回 「~してあげる」はだれからだれへ? – Web日本語

外から見えそうな露天風呂? その口コミが過剰なのかとか、心の自己防衛策とかを考えてみる

温泉に行くことになった。
宿泊予約サイトで宿を探していると、ある旅館の口コミに
「露天風呂に囲いがなく、明るい時間に女性が入るのは無理と思った」
という記述をを見つけた。
同様の口コミはさまざまな宿で、たまにみられる。

おそらくは外側から見えない構造にはなっているのだろうが、その宿泊客は「見えるのでは」という不安を真面目に吐露しているのだから、まあそう感じる人もいるということだろう。
私自身は、そういった不安を抱くような露天風呂に遭遇した経験はない。
そのような立場から言うのだから説得力はゼロに等しいのだが、けれども私の場合、「べつにいいんじゃね?」と思っている。

見える(かもしれない)露天風呂についての、仮の話

私が露天風呂で、柵の隙間から、外を歩く通りすがりの男性に「見られた」と感じたとする。
私はもちろん「げっ」とか思いながら慌てて身体を隠す。
でも次に来る気持ちは、「あーあ見られたねこりゃ。アッハッハ」くらいのものだと思う。
男性がどう思うかはわからないが、まともな感覚の持ち主なら、その場をさっさと離れるだろう。
私としても、男性の気持ちが「きったねぇモン見せやがって」だろうが「見ちゃったウフフ」だろうが、心底どうでもいい。
(もともと釣りなどでその場に留まるつもりの人物なら、また見ることのないように注意するだろう。私も見られ/見せないように慎重になるだけだ)

私もあいつも、だいたいの人の世界においてモブだ

私は男性を知らない。男性も私も知らない。
私は男性を「男のモブ」、おっさんは私を「女のモブ」と認識する。
しかも私はその温泉地に、また来るかどうかもわからない。私と男性は、非継続的な関係だ。顔も記憶しない。
そのできごと自体は覚えていても、そして仮にどこかで再会しても、「あのときの男/女」ということにはならない。

つまりこの場合、私は裸を見られたとしても、自分という「個」が傷つけられたとか汚されたという気持ちにはならないのだ。
(繰り返すが、男性側の気持ちは深く想像できないので、今回は割愛する)

ではなぜ隠れるかというと、これは大した問題ではない。
もともと裸は無闇に見せるもんじゃないとしっかり刷り込まれているし、そもそも見せたくない。それを見える状態のままにしておくと、男性が立ち止まって凝視しないとも限らないからし。
凝視されたらその段階で、私と男性の関係に変化が生じる。
互いにモブという性格が薄れ、自分という「個」が傷つけられ/汚され始めるのだ。

傷つけられる/汚されるのは私ではなく

仮に私が傷ついたり汚されたりといった気持ちにならなかったとき、代わりにダメージを受けるものがある。
私が「私個人に課されたかもしれない傷または汚れ」を受け流して、「男性の、私に対する認識=私の属性」に押し付けたのだから、つまり、なにか傷つけられる/汚されるものがあるとすれば、それは「(その露天風呂で入浴する)女性たち」ということになる。

見えるはずがない、という安心感が一番

もともと私は「外から露天風呂が見えるんじゃないかとか、ないから」とか「気にしなくていいんじゃね?」という主旨の記事を書こうとしていたのだが、考えているうちにそうでもないことに気づいた。
露天風呂の目隠しを訝る人が心配したり怒ったりするのは、実際に外から裸を見られたのでなくとも、傷ついているからだ。傷/汚れを集団に負担させるだけでなく、個人としても受け止めている。
そしてその懸念や怒りを表明することは、露天風呂に入る人たちの心を守るという意味ももつ。
だから露天風呂が「外から見えるんじゃ……」という懸念を抱かせる構造をしているのは望ましくないし、せめて「外からは見えないから安心して景色を楽しんでね!」という案内書きがあってもいいと思う。
あと、「こういうこと書いたり言ったりするやつに限って、ババアとかブスなんだ」とか言うのもやめようね。

けれども、私のように個人で受け止めることを避け、傷/汚れを集団に課そうとするのも悪いことだとは思わない。
過度な傷を負わなくて済むようにするための、当然の防衛策だ。

繰り返すが、そもそも私は、「見えるんじゃないか」と不安になる露天風呂に遭遇したことも実際に見られたこともない。
(怒りや不快感は集団に還元するから)もし見られても大して気にしない、というのは強がりかもしれない。
仮に見られるようなことがあれば、怒りや不快感はそのような事態を引き起こした宿側に持って行くだろうし、自分が傷つくつもりもない。

「産めない気持ち」を書いて整理したら、折り合いをつけられそうになった話


私は子がおらず、これから産むという意思もない。
これまで、このブログ内でも経緯に触れたり理由を考えようと試みるなどしているが、どうもまとまりがない。
このブログのなかでも、現在のところ3本の記事で触れている。

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こうなったのは、もともと「産みたい」という意思がないところに、さまざまな要素が絡み、こじれてしまっている、というのが理由の1つだろう。
というわけで今回は、私の「子を産みたいと思わない(子を持ちたくない)」気持ちを、なるべくわかりやすくなるよう時系列順に整理してみる。

萌芽と同時にほぼ完成

そもそも私は、「産まなきゃまずいのかな……」と悩んだことは何度もあっても、「子を持ちたい」「産みたい」という気持ちが自然と湧き上がってきたことはない。

実は私は、小学校低学年くらいのときに、母を前に「私は子供産まない」と宣言していた。
妊娠~出産における身体への負担はもちろん、周りの親たちの自己犠牲ぶり。その反面、子は大人を利さない。
小学生の私にとって、子供とはそういうものだった。だから「子を持つことは非合理的」と判断したのだ。
幼い子の言うことだ、一時的な気の迷いだろう、と母は本気にせず、「そしたらウチ(母方)の血筋が途絶えちゃう」と笑っただけだった。
以降しばらく、私は子を持つかどうか真剣に考えることも、大人たちに真剣に「子供は絶対産め」と言われることもなかった。

こじらせ第1形態(あと2回も変身を残している)

「産まない」宣言から10年以上経ち、私は相変わらず「欲しい/産みたい」という気持ちを感じることもなかった。
けれども私は20代前半で、「子供は絶対欲しい、できれば3人」と願う男と結婚した。
本心を押し隠し、価値観の擦り合わせもしないまましたこの結婚は、当時の私にとっては現実逃避のようなものであり、今の私から見れば精神的な自死だった。この相手とは後に破綻するので、ここでは「元夫」と呼ぶことにする。

自己肯定感の低い人間は、好きでもない相手と結婚も離婚もするし家だって買う4

互いに若かったこともあり、「しばらくは2人の生活を楽しもう」と2年間は子供を作らずにいた。
「この間に私にも子を持ちたいという気持ちが生じるかもしれない」という不確かな目論見もあった。

けれども気持ちは1ミリも揺らがなかった。
そうして私は元夫の前で「子を持ちたくない」と表明し、それを正当化しようと理論武装し、元夫を説得にかかった。
しかし(というか当然ながら)元夫の理解も共感も得られなかった。
それぞれが相手を自分の都合に合わせようとし、互いに悪手を繰り出し、墓穴を掘りまくる。結果、憎み合っての離婚。

離婚に至るまでに、「産みたいと思う気持ちがない」はこじれ、「絶対に嫌!」に変わっていた。
もはや自分でも、「絶対に嫌!」の正体が、
「妊娠・出産・育児が非合理的だから」なのか、
「大嫌いな元夫の子を自分の体内で育て、体外に出してからも育てなくてはならないのが嫌」なのか、わからなくなっていた。
もともと「産みたい」という意思がなかっただけ……というシンプルなことすらも、忘れてしまっていたのだ。

こじらせ第2形態

「産みたくない」という気持ちはそのままだったが、結婚生活から離れたことで、<産むべき⇔産みたくない>のジレンマからはしばらく解放された。「絶対に嫌!」が「欲しくない/産みたくない」くらいには落ち着いた。
けれどもそれも束の間のことだった。
デートをした男に、「子供好き?」と訊かれたのだ。
私は「……普通」と答えるのが精一杯だった。
まあ、嘘ではない。好き嫌いと子を持つこととは別だ。
相手は付き合ってもいない男で、間をつなぐための他愛のない問いだったのかもしれない。男も「普通」と言った。
けれどもこの問いは、「子供欲しくない/産みたくない問題」をこじらせた私にとっては心臓をえぐるようなものだった。
どんな男も、子を欲しがっている。子を持ちたくない女は嫌われる――と、感じたのだ。
男とはそれから交際を始めたが、結婚に至っても「子供を産みたくない」と告白することができなかった。
「子を持ちたくない」気持ちを隠すことは、重大な嘘をつくに等しかった。
結婚を意識しだしてからずっと、私は罪悪感に苛まれ続けた(以降、男のことは「夫」とよぶ)。

こじらせ第3形態

「子供だけは産みなさいよ」(産むというなら、本当はアタシは反対だけど、この結婚を認めてあげる)
と母が言った。

結婚前の私に母が浴びせた最悪の台詞4選と、そこから見えてくること

この台詞もまた、強烈な楔となった。

繰り返すが、私には「子供欲しい/産みたい」という気持ちが自然と湧き起こったことがない。
元夫との婚姻中に「絶対に嫌!」となり、離婚後「欲しくない/産みたくない」レベルに落ち着いていた。
そしてこの「欲しくない/産みたくない」が、母の言葉によりふたたび「絶対に嫌!」になってしまった。
しかし、この時点では「絶対に嫌!」という本心を自覚できず(自覚したうえで押し殺そうとした?)、「子は持つ/産むもの」と自分に言い聞かせるようになった。
それが自分と夫のためだと思い込んだ。

「子は持つ/産むもの」と自分に言い聞かせていた期間は1年半くらいだと思う。
その間に夫と入籍し、新居で生活を始めた。
「子供がいれば……」「子供ができたら……」と口に出す私は、夫にだって「子を持つ気でいる人」に見えただろう。子を持つつもりで、広いマンションを購入した。自分も父親になるつもりでいただろうし、子のいる生活を多少なりとも思い描いていたはずだ。

けれども私は、「子供が……」と発話するときいつも、胸苦しさを感じていた。
結婚式があるから、新婚旅行があるから、腰痛の治療があるから、と言い訳を探しては子作りを遅らせた。
母の言葉は完全に呪いになっていて、何度も頭のなかに反響し、頭痛や情緒の不安定化をもたらした。
結局、苦しさは限界に達し、夫に「子供、欲しくない」とカムアウトした。
夫はすんなりと受け容れてくれた。
でももし、夫が「子供絶対欲しい人」だったら、妻有責の離婚案件だ。元夫と同じことになる。現夫の人生まで汚すところだった。

「子供ができたら」と発話するときはいつも、胸苦しさを感じた。結局現夫には「子供欲しくない」とカムアウトした。有り難いことに夫はすんなり受け容れてくれた。最優先すべきは、自分達2人の人生だ、と。
でも夫が「子供絶対欲しい人」だったら妻有責の離婚案件だ。夫の人生まで汚すところだった。

ボスが弱っていく!

夫へのカムアウト後も、しばらくは苦悩した。
姑は孫の顔を見ることができなくなるし、年をとって後悔するかもしれない。母はうるさい。
けれどもそうした悩みも、ゆっくりとではあるがやわらいでいる。
幸いなことに、ここ1年ほどは「子を持たない選択」を尊重するような風潮も生まれつつあり、また私自身もブログという場で言語化することにより、気持ちを整理できるようになってきた。
いまもその最中だ。
(つい最近の記事で「理由がこじれてよくわからん、でも現状無理」と書いたばかりだし)

そして、ただ「子を欲しい/産みたい」という気持ちが自然と湧き起こってこないだけ――というとてもシンプルな原点を思い出すことができた。
あなたが子を持たない理由は? といえば、今の私はまだ、「育てる自信がないから」「産まない方が合理的だから」と答えるだろう。
けれどももしかしたらいつか、「産みたいと思ったことがないから」と堂々と言い放つことができるようになるのかもしれない。