毒親認定したいけどできないなら、ひとまず「準毒親」と考えてみる?

毒親(毒母、毒父)という概念はここ数年ですっかり広まり、ブームになったとさえいえる。
毒親にまつわるWEB漫画やコラム、書籍などに接することで、数多の「毒親持ち」「毒親育ち」が少し楽になったんじゃないか、と思っている。
かく言う私も、自分に起きている問題が、すべて自分のせいではないとわかり、救われた1人だ。
ただ、自分の親を「毒親」と判断するのには、障壁がいくつもある。

「確かに嫌な思いもさせられたけど、ニュースに取り上げられるような虐待ではないし……」とか、
「親のせいにして、親に甘えているみたい……」とか「育ててもらった恩を仇で返すようで……」とか、
「親だって人間なのだから、完璧な子育てなどできるわけがない」とか、
「事情があったのだから(親自身に障害などがあったとか、自分が育てにくい子だったとか)仕方ない」とか。

こうした思いを抱くのは、仕方のないことだと思う。
しかし、だからといって親や家族関係には全く問題がないと判断したり、逆に無理に親を毒親だと思い込むのは、危険だ。
結局は自分が苦しみから抜け出せなくなったり、あるいは自分の問題と向き合えなくなったりする。

私自身も、家族関係で苦しい、でも自分の親が毒親だと判断しかねている1人だ。
そこで、一旦「準毒親」だと思うことにして、心を落ち着けるようにしている。

この記事は、自分の親を毒親だと判断し、楽になろう! と謳うものではない。
私は「準毒親」という考え方を試してます、ということを言いたいだけだ。
また、「準毒親」という考え方は、ド素人の私が勝手に作ったものだ。使ってくれても構わないが、責任は負いかねる。

私がウチの親を毒親であると疑う理由

毒親かどうか、まずはアタリをつけてみる

「毒親 診断」などで検索すると、毒親診断チェック、毒親特徴リストなどといったものがいくつか出てくる。
試しに受けてみると、私の親は50~75%くらいの確率で毒親だろう、といった感じだった。

機能不全家族(毒親)傾向度 診断チェック – ココオル
毒親診断チェック
もしかして毒親育ち?! 今すぐ診断できるチェックリスト – 毒親特徴まとめ.com

※ 「自分が毒親かどうか」という診断と混同しないよう、ご注意を

ウチの親の行動と、子たる私への影響

さて、以下に問題と思われる母の行動を挙げてみる(父については後述)。
順不同、年とともにマシになっていったものもある。

  • 躾における、過剰な暴力
    ピアノが上手く弾けないだけで、椅子を引き倒され、髪を強く引っ張られた
    ノートに他愛のない落書きをしただけで、鼻血が出るほど叩かれた など
  • 脅迫めいた言動
    「あんたを捨てにいくよ!」と実際に私を車に乗せて遠出した
    包丁を怖がる私の手に包丁の刃を突きつけ「さっさとやれ! 切ってやろうか!」 など
  • 情緒不安定気味
    同じ行動を起こしても、激怒するときとそうでないときがある
  • プライバシーを侵害する
    部屋にノックなしで入ってくる
    一緒に遊ぶ相手、食べたものなどを詮索する
    ノートに絵や文章を書いていると、覗き込む など
  • 持ち物や行動を小馬鹿にする
  • 悪口を過剰に言う
    ターゲットは父、知人、そのときTVに映っている人物 など
  • 望んでもいないことを押し付ける
    逆上がりができないだけで、やりたくもない体操教室に放り込む
    行きたくもない旅行や興味のないお出かけ
    「嫌だ」と言うと、「あんたのためなのよ!」と怒るか「楽しいわよ」と決めつける
  • 大人であること、立場が強いことを笠に着ての呪詛や罵倒
    「可愛くないね! そんなんじゃ嫌われるよ!」「あんたのためよ!」「口答えするな!」 など
  • 体型や体質の欠点で大騒ぎするくせに、私が自発的に外見を整えようとすると怒ったりからかったりする
    女として張り合おうとしていたのだろうか……
  • 父との喧嘩を子のせいにする
    「あんたのことで喧嘩してるのよ!」「あんたがいなきゃ離婚してる」
  • 価値観の植え付け
    「A校よりB校の方がいいわ」「お医者さんになるのがオススメ」
    「普通でいいのよ」と言いつつ、1つでも欠点やできないことが見つかると過剰に問題視する
  • 私の無理なわがままを聞く、なんでも買っちゃう(これは父も)

次に、親から影響を受けたと思われる私の行動傾向について挙げてみる。これも順不同だ。

  • 親にされたことをクラスメイトや友人にしてしまう
    叩く・つねるなどの暴力、「バカ」という罵倒、自分の思い通りにさせたがる、できないと罵倒する など。当然、嫌われる。
  • なんでも報告してしまう
  • 1つでも欠点やできないことがあると、隠そうとしたり、できるようになろうと無理をする
  • 悪口を言う癖がつく
    普通のこと、コミュニケーション方法の1つ、強烈なことをたくさん言うと偉い と思い込む
  • 決めつけが多く、自分と異なる考えを受け容れない
    「普通は~」「~に決まってる」「えぇ!? ○○なんてありえない!」 など
  • 単独行動を極端に怖がる、または惨めなものと思い込む
  • 怒られる、嫌われる、非難される、からかわれることを怖れ、言いたいことを我慢してしまう
  • わがままを無理に通してもらったことに対する罪悪感
  • 自己肯定感が低い

ちなみに、父の行動でよくなかったと感じているのは、「私のわがままをききすぎる」「不機嫌さを露わにする」くらい。
「うるさく言わない」「ほとんど叱らない」というのは子供にとっては都合がいい。けれどもそれは、躾などは母に丸投げ、子育ての美味しいところだけを持って行く、というずるい行為でもある。
実際のところ、私がいま問題視しているのは母ばかりだ。嫌われ役を母1人に押し付けることには大成功。
父の関わり方がまた違っていれば、母の行為も少しはマシになっていたかもしれないと思うと、父もまた共犯者といえそうだ。

『毒になる親(原題『Toxic Parents』)』の著者スーザン・フォワードは毒親を「子どもの人生を支配し、子どもに害悪を及ぼす親」と定義している。
私の場合、母は子たる私に自分と同じ価値観や行動パターンを植え付けたり、母の望むように行動したり一時は依存させたりすることに成功している。
もう毒親認定してもいい気はするのだが、しかし私にはまだ、躊躇いがある。

それでも毒親と判断できない、障壁の数々

私自身が毒親認定を躊躇う理由を挙げていく。

  • 明らかな虐待を受けたわけではないし、外から見れば子育て熱心な母と優しい父といったところ。夫も、母を「少し行き過ぎることはあるけれど、特別問題視するほどでもない」と評価した
  • 私自身が育てにくい子であり、両親を疲弊させ、混乱させた。
    私の子供時代については、この記事が詳しい。
    自己肯定感の低い人間は、好きでもない相手と結婚も離婚もするし家だって買う1
  • 現在はだいぶ緩和されている
  • 軽率な毒親認定は危険。「親だって人間なのだから、不完全で当たり前」「親に関係ない問題まで、親に原因を求めてしまうことになるのでは?」など、冒頭で触れたような考え

ひとまず「準毒親」というボックスに放り込んでみよう

今のところ、私は自分の親を「準毒親」と思うことにしている。
そもそも「毒親」という言葉に抵抗があるなら、「グレー親」とかでもいい。

「毒親論」において、親は「毒親」「そうでない親」の二分だけで考えられがちだ。でも多くの親は黒(毒親)でも白(そうでない親)でもなくグレーだろうし、黒であっても黒と認定しづらい事情もある。しかしその状態もまた、苦しい。

だからもう、毒はあるけれど毒親と言い切れない、毒親だろうけれど毒親だと決めにくい事情がある、これからゆっくり判断したい、というなら、ひとまず「準毒親」と思うようにして、一旦楽になればいい。

「準毒親」認定して、その後

親を「準毒親」ボックスに投げ込んで、その後どうすべきか、私にはまだわからない。
具体的にいえば準毒親ボックスに入れたままにしておくか、毒親認定してしまうか、「毒親でない」と考えるかの3択なのだが、おそらく3番目は選ばないだろう、というくらいだ。
(椿木密の戦いはこれからだ!)

参考:毒親 – Wikipedia
親が「毒親」だからといってあなたが不幸になる必要はない 『「毒親」の子どもたちへ』著者・斎藤学氏インタビュー

 

自己肯定感の低い人間は、好きでもない相手と結婚も離婚もするし家だって買う5

「自己肯定感」という言葉が広く知られるようになったのは、ドラマ『逃げ恥』の影響だと思う。
みくりさんが平匡さんを評して「自己肯定感が低い」と言うなど、この言葉がたびたび使われていたのだ。

そもそも、自己肯定感とは「自分は大切な存在だ」「自分はかけがえのない存在だ」という感覚・感情のことだ。
自分を高く評価している、ということではなく、「長所も短所も含め、あるがままの自分を受け容れている」ということらしい。

参考:自己肯定感とは – はてなキーワード

「自己肯定感が低い」。
ここまで私を端的に表現できる言葉は、ほかにないかもしれない。
おそらく私は、失敗や損が多いほうだ。
関わった人達に損をさせたことも多いほうだ。
なぜそうなったか――追えば追うほど、その先には「自分を無価値に思う心」があるように思える。
そして失敗や損をするたびに、自分の存在をさらに認められなくなっていく。

当シリーズでは、「自分の在りよう」と「失敗や損」と「自己肯定感」について、5回にわたって時系列順に考察してみる。
危機感を高めてこうならないための対策を講じるなり、下を見て安心するなり、とにかく誰かの役に立てばいい。
最終回となる第5回は、離婚後から現在に至るまでだ。

前の話:自己肯定感の低い人間は、好きでもない相手と結婚も離婚もするし家だって買う4

出戻りですがなにか

パフェ男と離婚した私は、再び実家で暮らすことになった。
このときの私はパフェ男への憎しみのほか、無力感に苛まれていた。

母には「メガバンクへの就職のときもパフェ男との結婚のときも、ちゃんと相談してくれなかった」
と言った。なるほどその通りだ。そしていずれも大きな失敗に終わった。
これからはもう物事を自分で決めるのはやめよう。親に判断を委ねよう。
そう思って、実家での生活をスタートさせた。

働きたくないでござるけど、そういうわけにもゆかぬ

見つけた就職口は、ある公共施設の事務員だった。
契約職員だが、堅いお仕事ではある。
ろくな職歴もない私にとっては、ありがたい話だと思った。

着任前、職場を初めて訪問した。
上長から説明された勤務内容は、募集要項に「上長の補佐」とか「庶務」などとさらりと書かれていたものより、よっぽどハードで責任が重そうに聞こえた。
人員が足りていない、ともはっきり言われた。
接客もある。適性があるとは思えない。
上長には、「きついけど、本当に大丈夫?」と尋ねられた。
無理かもしれない――そう感じはしたが、当時の私にこれよりマシな就職先を見つけられる気はしなかった。
不安を押し隠して、私は「はい」と言った。

働いてみると思った以上だった。
言われたとおり人手は足りない。モンスター嘱託員はいる。
私の担当業務についてわかっている人がいない(=引継ぎができない)。
契約職員には大きすぎる責任と肩書きを課される。
場当たり的に派遣やアルバイトを補充され、その教育に追われる。自分の業務は後回し。
着任して1年経つ前には、頭痛を感じ、休日に涙が止まらなくなるようになった。
メガバンク勤務のときと同じ、うつの予兆といえた。

すわ休職か契約解除か、と思った矢先に、正規職員が1人補充された。
契約職員たる私の責任は相対的に軽くなり、ストレスも緩和された。
症状はひとまず落ち着いた。

再婚 ―そして現在へ―

しばらくの後、当時の交際相手と結婚し、公共施設は退職した。
それまでも実家から通い両親の手を借りまくってやっと続いていたくらいだったのに、職場は再び不安定になりかけていた。
結婚生活との両立は無理だと考えた(これは自己肯定感どうのという話でなく、本当にそうだったと思っている)。

呪われ女、家を買う。

新婚夫婦の新居は、賃貸にするのがセオリーというものだろう。
夫と私も、最初はそのつもりでいた。
しかし私は、貯金をはたいて中古マンションの1室を買った。
実家近く、しかも2人暮らしには広すぎる間取り。

「家賃を払い続けるのは勿体ない」「子供はできるに決まっている」。
親の考えだった。
離婚直後、自分で決めるのは危険だとあれほど思ったのに、再婚相手についてはほとんど相談もしなかった(詳細は後述)。
新居のことくらい、親の意見に従わなくては――
そう考えて、決めた家だった。夫に「一旦賃貸にして、ゆっくり探そう」と言われもしたが、押し切ってしまった。

敵はウチにいた

話は再婚前に戻る。
さる事情から、特に母親が夫との結婚に反対していた。
母親と本格的な言い争いになったのは、このときが初めてだ(といっても噛み合わず、とてもお話にはならなかった)。
そのとき母は、「子供は絶対に産みなさいよ(産むと誓うなら結婚を認めてやってもいい)」というようなことを言い放った。
母との会話に疲れていた私は、曖昧な返事をしてその場を切り上げた。
結婚前の私に母が浴びせた最悪の台詞4選と、そこから見えてきたこと(準備中)

聞き流したつもりではいたが、しかしその言葉は呪縛として脳裡にしっかりと刻みつけられていた。
だから、本心のところでは子供など欲しくないくせに、夫に対して子供を作るつもりでいる姿勢を見せた。
実家に近くて、広いマンションを買った。

はやく真人間になりたい

母の呪縛は、なかなか解けなかった。
私が一時、自分の希望や考えなどあてにならないとして、「決め事は親に任せよう」と考えていたことが影響していたのだろう。
「本当に産みたくないのだ」という本心を受け容れる、すなわち母の呪縛から解放され始めるまでに、随分な年月を要した。
(パフェ男との婚姻時も「産みたくない」と思っていたが、相手が誰でも同じだったのか、パフェ男限定かわかっていなかった)

夫は偏見や決めつけのない、現代的で柔軟な人物だ。パフェ男とは正反対だと思っている。
自分のしたいことと向き合い、考え、進む道を決めている。私とも正反対だ。
なぜ私のような人間と結婚してくれたのか、不思議なくらいだ。

産みたくない、という私の本心も受け容れてもらっている。
子を望んでいたかもしれないが、口にすることはない。(本当に申し訳ない)
それどころか、私の能力を活かそうとしてくれているし、そのための環境も整えてくれている。
この人との結婚が、自分でした選択で初めての正解だ。

今の生活が、過去に失敗や損を重ねてきたことへのねぎらいか、人を傷つけて回ったことへの「上げて落とすタイプの罰」か、まだちょっとわからない。
でも夫を失えばおしまい、という点で、私は極めて不安定なところにいる。
だからまだ「幸福だ」と言うのはよしておく。

ちなみにマンションは、夫の転勤に合わせ、近く売却するつもりだ。

最後に

誰かの役に立てば、と思いこのシリーズを始めてみた。
けれども書き進めるにつれ、結局一番役に立てているのは自分だと感じるようになった。
書くにあたっては、「自分を責めすぎない、無理に客観的になろうとしない」というスタンスを心がけた。
それが幸いしたのだろう、心が整理されたばかりでなく、自分を癒やし許し受け容れること――すなわち、書くこと自体が自己肯定感の回復につながったと思われる。

役立ちという点でいえば、私の場合、発達障害(グレーゾーン)が自己肯定感を下げる原因の1つだろう。
発達障害(またはグレーゾーン)は、あくまでもたくさんある原因の1つに過ぎないが、無視してよいものではない。
周囲の誰かなり、自分自身なり、心当たりのある人がいれば、できる範囲でケアしてほしい。私のように愚行を繰り返す前に。

私、椿木密の場合

その他、私の自己肯定感の低さの原因となったのは、持って生まれた性格、身体能力の低さ、あとは学校や職場といった環境。
失敗や損といえば、たくさんのお金や時間、職歴や婚歴、そして私に関わった人の心といったところだろう。

このシリーズにおいて、私は何度も「このまま進んでもよい結果にはならない」とわかっていながら行動を進めていた。
そして実際に、予想していたとおりのことが起こる。つまり、失敗や損だ。
そのときの私の心情は、「でも今の状況がつらすぎて」と目の前の安寧に飛びつきたい。
あるいは、「もう考えるの嫌だ」「せっかくここまで来たのだから」と、立ち止まって考え、引き返すことが億劫……といったところだ。
いずれにしたって、考え直したときよりもさらに大きな痛手を被る、ある意味でのセルフネグレクト(もしくは自傷行為)だ。
「戻っても次うまくいく保証はない」「○○(別の選択肢)なんてできると思えない」――自己を低く見積もっているからだろう、と私は考える。

今の私は、運良く自己回復に進めただけの人間だ。
なにかアドバイスできるような立場ではない。
繰り返すが、危機感を高めてこうならないための対策を講じるでも、下を見て安心するでも、なんでもいいから誰かの役に立てばラッキー。
そう思っているだけだ。

自己肯定感の低い人間は、好きでもない相手と結婚も離婚もするし家だって買う4

「自己肯定感」という言葉が広く知られるようになったのは、ドラマ『逃げ恥』の影響だと思う。
みくりさんが平匡さんを評して「自己肯定感が低い」と言うなど、この言葉がたびたび使われていたのだ。

そもそも、自己肯定感とは「自分は大切な存在だ」「自分はかけがえのない存在だ」という感覚・感情のことだ。
自分を高く評価している、ということではなく、「長所も短所も含め、あるがままの自分を受け容れている」ということらしい。

参考:自己肯定感とは – はてなキーワード

「自己肯定感が低い」。
ここまで私を端的に表現できる言葉は、ほかにないかもしれない。
おそらく私は、失敗や損が多いほうだ。
関わった人達に損をさせたことも多いほうだ。
なぜそうなったか――追えば追うほど、その先には「自分を無価値に思う心」があるように思える。
そして失敗や損をするたびに、自分の存在をさらに認められなくなっていく。

当シリーズでは、「自分の在りよう」と「失敗や損」と「自己肯定感」について、5回にわたって時系列順に考察してみる。
危機感を高めてこうならないための対策を講じるなり、下を見て安心するなり、とにかく誰かの役に立てばいい。
第4回は、1度目の結婚から離婚に至るまでだ。

前の話:自己肯定感の低い人間は、好きでもない相手と結婚も離婚もするし家だって買う3

さて、当時の交際相手のことだが

私が休職しても、パフェ男との関係は続いていた。
ちなみにパフェ男とは、大学時代からの交際相手で、勤勉と素朴の男である。

パフェ男についてのエピソードを1つ。
まだ正式配属先でうつに苦しみながら勤務していた時期。
パフェ男には仕事が辛いこと、うつになったことをすでに伝えていた。
ある日曜日、パフェ男と昼食を取っていると、涙が流れて止まらなくなった。
食事を終えてパフェ男とさよならしたら、私は寮に帰るしかない。
寮に帰るということは、月曜日が間近に迫っているという事実に向き合うということだ。
「明日会社行きたくない」と私は言った。
パフェ男は「大丈夫!」と言い、私をカラオケに連れて行った。
パフェ男には、「私を慰める=カラオケか甘い物」という図式があった。
カラオケを終えた後、先延ばしにされた2時間分の憂鬱と絶望感が、まとめて襲ってきただけだった。

パフェ男は、うつは甘えや一時的な憂鬱感のようなものだと考えていたということだ。
結婚をも考えている自分の彼女の抱える問題を、理解しようとしなかったのだ。
(理解してもらおうと私が話さなかったとすれば、それはパフェ男への信頼感がなかったということだ)

滅びに向かう結婚

ここからは胸糞です。本当に最低です、私。

パフェ男と結婚しようという意識し始めたのは、就職活動を終えた頃だ。
パフェ男も同じ気持ちでいたようだった。
ただし私が結婚を意識しだしたのは、メガバンクでの勤務は長続きしないと思ったからだ。
つまり、パフェ男との結婚をリスクヘッジにしていたということだ。

そして実際にメガバンクでの勤務は上手くいかず、休職中にパフェ男と入籍し、首都圏にあるパフェ男の会社の社宅で生活を始めた。

もともとパフェ男に対しては、まともな恋愛感情も1人の人間としてのリスペクトもなかったと思う。
そのうえ療養中の扱いから、信頼感を落としてもいる。
にもかかわらず結婚にまで踏み切ったのは、私がそれほどに追い詰められ、正常な判断能力を失っていたからだ。
復職するにしてもしないにしても、結局私は退職することになるだろう。
その後、まともかつ長く続けられる仕事を見つけられる自信もない。パフェ男には私の安心源となってもらおう――

穏やかな2年に毒の回る

入籍後数ヶ月で私はメガバンクを退職した。
あの上司がいる限り治らない、たとえ別の部署で復職できたとしても、パフェ男の社宅からラッシュの通勤電車に毎日1時間半かけて本社に通うことはできないと思ったからだ。(支店勤務も勤まりそうになかったし)
退職後は、半年もしないうちに治っていたようだった。
まだフルタイムで働く自信はなかったから、在宅の仕事と簡単なアルバイトを初めていた。

パフェ男は、子供を3人欲しがっていた。
自分が3人兄弟だったかららしい。
「1人っ子じゃ寂しいし、わがままになるし贅沢も覚える」とも言っていた(それが1人っ子である私への評価でもあったのだろう)。
「男女1人ずつの双子っていいよね」とも言うこともあった。
ドラクエ5の主人公にでもなりたかったのか、お前は。
3人産むのも双子を身ごもるのも母体にとってはとてつもない負担だ。
現実や妻の気持ちを飛び越えて、パフェ男は1人、幸せな夢を見ていた。

対する私は、子供を欲しいと思ったことがなかった。
パフェ男の希望を知りつつ、それでも結婚した。重ねて言うが、冷静でなかった。自分の本心を突き詰めることをしなかった。
2~3年経てば子を持ちたくなるだろうと楽観視していた面もある。
入籍当時、パフェ男26歳、私24歳。
だから「2年間は2人の暮らしを楽しもう」という合意を取り付けた。
親族にも堂々とそう言った。

けれども2年経っても、子を望む気持ちは湧かなかった。
寧ろ、「絶対に嫌だ」と思うようになっていた。

やっぱ無理無理ほんと無理

「子を作らない」と合意していた2年間、溜めに溜めた毒は次々に潜伏期間を終え、回り、暴れ出していた。

休職中に、バカな上司からかばってくれなかったこと。
結婚後も、隔週の面談は続いていた。
パフェ男との結婚で住居こそ首都圏に移り、移動の負担こそ減ったが、精神的負担は変わらない。
そんなことパフェ男にもわかっていたはずなのに、パフェ男は「断ってもいいのではないか?」というアドバイス1つすらくれなかった。
(前回にも書いたが、当時の私は「命令だから行かなきゃいけない」に支配されていたのだ)
ようやく「面談行きたくない」と言葉にできたとき、パフェ男は「やだねえ、頑張れ」と慰めただけだった。
遅すぎるとわかってその不満を吐露すると、「俺だって1年目で余裕がなかったんだから」とパフェ男は言った。
それはもっともだが、1度Googleで「うつ」と検索する暇もなかったようには見えなかったのだ。

自分が後輩にいい顔をしようとするためだけに、留守時に勝手に人を入れる。
外面はいい癖に、運転時はすぐにイライラしだす。
近くの公営住宅の住民を蔑んだ発言をする。
冗談交じりに「避妊やめていい?」と言う。というか、隙あらば誤魔化そうとする。
俺は優しいんだぞという顔をしながら、前時代的・体育会的・男尊女卑的思考。
無意識らしき、妻を見下す言動(お互いさまだけど)。

結局私は、約束の2年を迎える少し前に、「子供は無理」と言った。
子供を産むことそのものが無理なのか、パフェ男との子供が無理なのか、どちらかもよくわからない。
ただ、無理、だったのだ。

子供無理なら離婚するしかないよな

この時点で私から離婚を切り出すのが正しい道だったと思う。
しかしそうしなかったのは、また1人になるのが怖かったからだ。
離婚すれば、フルタイムで働かなければならない。
ずっと1人で生きられる自信はないから、いずれは結婚相手も見つけなければならない。
けれどもそれができる気がまったくせず、離婚の「り」の字も口にはしなかった。

パフェ男も婚姻を継続し、私の気持ちを変える方針をとった。
私がパフェ男に説明した「子を持ちたくない」理由は、「産まれたところで幸せにはなれないだろう」「育てる自信がない」などといったところだった。本心ではあるけれど、全部ではない。
だからパフェ男は私を元気づけ、「人生は悪くない」「産んだ子はきっと幸せになるし、産んだ自分達も幸せだ」と私に思わせようとした。
けれども「結婚してもらっている」立場で、さすがに負い目も感じている私にさえ、その方法はお粗末に思えた。

パフェ男がとった方法は、「旅行に連れてく」の1点だった(近場で1泊×2回)。
旅行に行くことで、「人生は悪くない」と思い直せるくらい、問題は単純だと思っていたようだ。
それに、「気晴らしや息抜き、あるいは自分へのご褒美といえば、旅行」という、超シンプルかつバリエーションに乏しい思考パターンも怖い。
妊娠~子育て時に心ない言葉を投げかけられたり、ちょっと子供をあやしただけでイクメン面されそうで、大きなストレス源になりそうだと感じた。
移動や宿の手配などの負担がパフェ男にかかった。しかしそれを申し訳なく思っても、感謝の気持ちは生じなかった。

一方でパフェ男は、この子供の件を、会社の上司に相談していたという。
上司は「納得いくまで話し合うしかないよ」と言ったらしいが、そりゃそう答えるしかないよ、他人のことだもの。
上司も随分困ったことだろう。

あとは、実母(私からみて姑)にも。
姑自身は善人で、パフェ男との距離を適切に保とうとしていたように見えた。
姑は息子の望みを叶えることを前提として、けれどもその場にいなかった私を責めようとはせず(パフェ男曰く)「密ちゃんを大事にしなさいよ」と言ったらしい(その後1週間後くらい、パフェ男は私に媚びていた)。

上司へ相談したことは問題を軽く扱われたと、姑に相談したことを、私を敵認識し自陣を固めようとしている(姑の言うことなら即聞くというのも気に食わなかった)と、私は認識した。
パフェ男の気持ちはよくわからない。
自分の行動が、無駄あるいは悪手とわからないほど追い詰められていたのかもしれない。

私はパフェ男への不信感を一層強めた。不信感はもはや、嫌悪に変わっていた。月経も止まった。
パフェ男もそれを感じ取っていた。一向に変わる気配のない(それどころか態度の硬化している)私への怒りが、嫌悪になった。
そしてパフェ男が、「離婚」を切り出した。

懲役3年、釈放です!

パフェ男から離婚を切り出されても、私はすぐには受け容れなかった。
ここまで関係が悪化しても、パフェ男に我慢を強い、自分にも我慢を課し、婚姻を続けようとしたのだ。
自分を卑下し、パフェ男に媚びさえした。
後に無意味だと言われたが、それをわかってすらいた。
自信も、自己肯定感も、そこまで落ちていたということだ。地に落ちたどころか、地底に潜ってマントル深く突き刺さっていたのだ。

互いの親を交えた話し合いの後、やっと離婚が成立した。
離婚の前後、とにかくパフェ男が憎かった。
私がパフェ男につけた傷は大きい。3年ものあいだ養わせ、我慢を強い、年月を浪費させ、挙句戸籍を汚したのだ。
なのに、私が負ったダメージを差し引いても、私が抱いた被害者意識は強すぎた。
裏切られた、傷つけられた、ひどい失敗だった、と。

憎しみで頬の内側の肉を噛み千切りそうになりながら、私は実家に戻った。

まとめと考察

今回もパフェ男ばかり悪しざまに書いているが、私からパフェ男に対する言動にも、大なり小なりひどいものがあった。
その自覚はあったということを言い訳しておきたい。

さて、この時期こそ自己肯定感の低さが強烈に影響している時期はほかにないと思う。
パフェ男との結婚と退職について、当時の私は隠居のように考えていた。
できればこのままハードワークせず、ついでに出産も子育てもせず、穏やかに余生を送りたい――
本気でそう思っていたのだ(相手にとっては堪ったもんじゃないな)。

でも一方で、メガバンクへの就職と同様、破綻も少しながら脳裡にちらついていた。
好意もリスペクトも感じない相手、子供についての擦り合わせができていない相手との結婚だから、当然だ。
やがて駄目になることを予感しながら、それでも現状のつらさに堪えかねて飛び込む。
相手を巻き込んでいるのだから、精神的な無理心中だ。

また、パフェ男への憎悪も、自己肯定感の低さに由来していると考えられる。
当時の私にとってのパフェ男は、おそらく、見下すことで自己肯定感を補完するための存在だった。自分が生き長らえることを許すための存在だったのだ。
だから、パフェ男からの離婚の申し出は反逆だと思えた。
高さのある踏み台を急に抜かれ、地に叩きつけられた痛みは相当のものだった。
不思議なことにこの憎しみだけは、パフェ男と断絶して5年以上経過した今でも収まっていない。
一生孤独で苦しめ、いや子供に苦しめられろ、さっさと○ね、いや生きて延々と苦しめ、と思っている。

次回で最後。ようやくタイトルを全部回収できる。

次回:自己肯定感の低い人間は、好きでもない相手と結婚も離婚もするし家だって買う5(最終回)

自己肯定感の低い人間は、好きでもない相手と結婚も離婚もするし家だって買う3

「自己肯定感」という言葉が広く知られるようになったのは、ドラマ『逃げ恥』の影響だと思う。
みくりさんが平匡さんを評して「自己肯定感が低い」と言うなど、この言葉がたびたび使われていたのだ。

そもそも、自己肯定感とは「自分は大切な存在だ」「自分はかけがえのない存在だ」という感覚・感情のことだ。
自分を高く評価している、ということではなく、「長所も短所も含め、あるがままの自分を受け容れている」ということらしい。

参考:自己肯定感とは – はてなキーワード

「自己肯定感が低い」。
ここまで私を端的に表現できる言葉は、ほかにないかもしれない。
おそらく私は、失敗や損が多いほうだ。
関わった人達に損をさせたことも多いほうだ。
なぜそうなったか――追えば追うほど、その先には「自分を無価値に思う心」があるように思える。
そして失敗や損をするたびに、自分の存在をさらに認められなくなっていく。

当シリーズでは、「自分の在りよう」と「失敗や損」と「自己肯定感」について、5回にわたって時系列順に考察してみる。
危機感を高めてこうならないための対策を講じるなり、下を見て安心するなり、とにかく誰かの役に立てばいい。
第3回は、新卒で就職してから結婚・離婚に至るまでだ。

前の話:自己肯定感の低い人間は、好きでもない相手と結婚も離婚もするし家だって買う2

新卒銀行員時代

結局、唯一内定を得たメガバンクに就職し、都内の女子寮(といっても1棟丸ごと借り上げられたワンルームマンションだった)へ引っ越した。
大学時代からの交際相手であるパフェ男との関係も続いていた。
パフェ男も首都圏で就職し、職場近くの独身寮に入寮していた。

さて、私は就職当初、人事部付とされた。数ヶ月の研修を受けた後に正式な配属先が決まるというシステムだったのだ。

けれど予兆は研修中に

就職が決まってからずっと、精神的にも身体的にも辛いに決まっている、続くはずがない、と絶望していた。
研修は、座学→OJT→座学→OJT→……の繰り返し。
猶予が伸びたと思った。
研修期間には気の合う友人もでき、それなりに楽しい瞬間もあった。
座学やOJTでも、比較的負担の少ないときもあった。
しかしそれはあくまで一面に過ぎなかった。

座学の内容は、当然ながら主に金融や経済のこと。
興味も適性もない私は、半分も理解することができず、無能感は増幅した。
(たとえば財務諸表を見てもその企業の経営が健全かどうか全く読み取れない。今もってそうだ)
学生時代も授業を受けていると、前日の睡眠が何時間であろうが眠ってしまうことが頻繁にあったが、研修でも同じだった。同期数十人の前で講師に叱責されたときは、特に恥じ入り自責した。
最も仲の良かった同期の女の子が体調を崩して休職したのも、大きな痛手だった。

OJT先は営業部の1つで、旧態依然・非効率的ないかにも「銀行の営業部」といった風情だった。
OJTだろうが残業は当たり前で、しかも残業時間を実際より短く申請せよと言う。
データを残さないよう、早く出勤しても始業時刻までPCの電源を入れるなと言う。
社員食堂は満員なのに、全員揃って固まって昼食を取ろうとする。席を確保するのは新人の役目。
月曜から飲み会を開き、2次会まで続ける。
新人は絶対に断るな、最後まで帰るなと言う。
お酌をタイミングよくできないだけで、無能扱い。
1週間かそこらで、私は頭痛に襲われるようになっていた。

部全体の飲み会の日、私は普通では考えられないくらいミスを連発した。
3年生の先輩に詰められた後、涙が止まらなくなった。
同期と2年生の先輩に連れ出され、2年生の先輩の判断で飲み会はパスすることになった。
彼女は私が落ち着くまで面倒を見てくれ、私の話を否定することなく慰めてくれたのだけれど、「明日、朝一で1人1人に謝ろうね」と言った。彼女は帰らずその足で飲み会に合流した。
翌日、「私が何か悪いことしたのだろうか」と思いながら、大きな部署を歩き、謝って回った。
私1人が欠けたところで、飲み会は何も損なわれない。
(損害があったとすれば、来るはずだった客が1人減ったお店だけだ)
ただ、なにかの体面だかなんだかのために、謝った。

頭痛はOJTが終わるまで続いた。

正式配属先に引導を渡される

その後の研修は少し穏やかになり、頭痛を起こすこともなくなっていた。
正式配属先は営業部ではなかったものの、その気風はOJT先の営業部と同じようなものだった。

当初は難しくなく、あまり自分で考えることを要しない作業を担当することになった。
しかし手順や物の場所を覚えられず、粘り強く教えてくれた教育係の先輩の態度が冷たくなっていくのがよくわかる。
ミスも頻発。周り全員が怖い。
おまけに上司は無能なうえ飲み会好き。新人は宴会芸をするものと本気で思っているし、酒を酌み交わせば信頼関係を築けると信じていた。
いつになるかわからないけれど、先輩と同じような仕事を与えられるようになったとき、まともに立ち回れる自信も皆無。
不安と憂鬱と理不尽しか、そこにはなかった。

次第に眩暈や頭痛を起こすようになる。毎日強烈な眠気に襲われるようになる。
配属1ヶ月後くらいには近所の心療内科に通うようになっていた。
医師はすぐに私をうつだと診断した。けれども薬を増やすばかりで、診断書はなかなか書いてくれなかった。
症状は悪化する。普段できていたルーティーンが億劫になる。やたらと涙ばかり出るようになる。
ようやく診断書を手に入れたのは、さらに2ヶ月後だった。

うつになるとまともな判断ができなくなるんだよ

私は実家に戻ることになった。
実家は少なくとも表面上は優しく迎えてくれたが、ここにも真の味方はいなかった。
実家がしてくれたことは「頑張れって言っちゃ駄目なんでしょ?」と言って、その通りにしていたことだけである。

べつに、専門家なみに知識を身につけて、完璧に取り扱ってほしいわけではなかった。
でも、1回でもそのPCでGoogleのトップページにアクセスして、「うつ」と検索してくれてもよかったんじゃないの、と少しばかり思う。
そうすれば、脳を休ませることが大事だということくらい、わかったはずだ。
実際、まともな判断力を失い、私は大人なのに情けない、家にも会社にも迷惑をかけている、無能でバカだからみんなの言うことは聞かなくちゃ、という精神状態に私は陥っていたのだから。

参考:うつ病 – 厚生労働省

療養中、一時「むずむず脚症候群」までも発症した。
脚にむずむずぞわぞわとした不快感が生じ、じっとしていられなくなる病気だ。
5分も座っていれば辛くなるし、動くしかないから眠ることもできなくなる。
当時はあまり知られていない病気で、東京でかかっていた心療内科医も、地元の心療内科医も対処できなかった。
うつから回復するより少し早く自然に治っていったのが、不幸中の幸いだった。
原因は解明されていないが、私の場合は心因性のものだったと思われる。

参考:むずむず脚症候群 – Wikipedia
むずむず脚解消ナビ

だから、療養中の環境は、お世辞にもよかったとはいえない。
母に「気晴らしに旅行に行きましょう」と言われ、不快な脚を抱えて何時間も新幹線に乗る。
外食にも容赦なく連れて行かれる。
メニューを決められず、イライラされる。
ほとんど残しても叱られはしないが、申し訳ない気分が昂じてやはり私は駄目だという気にさせられる。

パフェ男にも隔週の上京のついでに会っていたが、療養に入る前と態度は変わらなかった。
また、パフェ男は就職前に私の実家への挨拶を済ませてはいたが、この時期に私の地元に来ることは1度たりともなかった。

上司は「2週間ごとに面談に来い」と言う。
それに背けず、2週間ごとに地元と東京を往復する。自腹で交通費を出して、むずむずする脚に堪えてはるばると。
服を上手く選べなくなっていて、冬場にしては薄着だった私に、上司は「なんだ、元気じゃないか」と言った。
「元気なわけないでしょう」と言い返すことはできなかった。

面談にも旅行にも行きたくはなかったが、私は「行きたくない」と言うことができなかった。
というより、思考のほとんどを「言われたから行かなきゃいけない」に支配され、「本当は行きたくない」という気持ちに気づけなかった。
特に面談は、私の症状を大いに悪化させていたと思う。
私が面談になど行きたくないことも、面談が私にさらなる悪影響を与えていることも、隔週での地元-東京間の往復が大いなる負担であることも、どれも明らかなはずなのに、誰もそうだとは言ってくれなかった。
父、母、パフェ男。誰か1人でも「うつ状態にあると判断能力が著しく落ちる」という情報にたどり着いていたら、私はもう少しうまく振る舞えたかもしれないし、回復だって早まったかもしれない。
(上司には、この点での遺恨はない。バカだとわかっているから期待しても無駄だと初めから割り切れていたし、そもそもストレス源すなわち敵だし。わざとバカな振る舞いをして、私を早く退職させようとしていたのかもしれないけれど)

「~してくれなかったから」「~してほしかった」という言葉は、本来ならあまり使いたくない。
でも、この件に限っては、そう思わずにはいられないのだ。

補足とまとめ

なんだかうつ病罹患者レポートみたいになってしまったが、しかし自己肯定感に無関係ではないので書き置くことにした。
うつ病にかかったことで、「お前は社会不適合者だ」「お前がまともに生きられる場所なんてない」と世界に拒否されたような気がした。フルタイムで働く自信はなかなか取り戻せず、就業に踏み切るのにも大きな勇気が要った。
療養中の不適切な扱いは、両親やパフェ男への不信感につながっている。

これらはいずれも、療養を終えた後から現在に至るまで、様々な場面で顔を出し私の呪縛となっている。
ただし、療養中に上手く振る舞えなかったことについては、その後数年こそは自責の大きな種となっていた。
しかし自己回復中の現在、当時の自己像は「もうああはなるまいし、なるはずもない」と反面教師のように機能してもいる。

さて次回。ようやくタイトル回収(一部)だ。

自己肯定感の低い人間は、好きでもない相手と結婚も離婚もするし家だって買う4

自己肯定感の低い人間は、好きでもない相手と結婚も離婚もするし家だって買う2

「自己肯定感」という言葉が広く知られるようになったのは、ドラマ『逃げ恥』の影響だと思う。
みくりさんが平匡さんを評して「自己肯定感が低い」と言うなど、この言葉がたびたび使われていたのだ。

そもそも、自己肯定感とは「自分は大切な存在だ」「自分はかけがえのない存在だ」という感覚・感情のことだ。
自分を高く評価している、ということではなく、「長所も短所も含め、あるがままの自分を受け容れている」ということらしい。

参考:自己肯定感とは – はてなキーワード

「自己肯定感が低い」。
ここまで私を端的に表現できる言葉は、ほかにないかもしれない。
おそらく私は、失敗や損が多いほうだ。
関わった人達に損をさせたことも多いほうだ。
なぜそうなったか――追えば追うほど、その先には「自分を無価値に思う心」があるように思える。
そして失敗や損をするたびに、自分の存在をさらに認められなくなっていく。

当シリーズでは、「自分の在りよう」と「失敗や損」と「自己肯定感」について、5回にわたって時系列順に考察してみる。
危機感を高めてこうならないための対策を講じるなり、下を見て安心するなり、とにかく誰かの役に立てばいい。
第2回となる今回は、大学時代の話だ。

前の話:自己肯定感の低い人間は、好きでもない相手と結婚も離婚もするし家だって買う1

大学時代前半

高校時代、すでに自己肯定感を地に落としていた私だが、運が良いのか悪いのか、第1志望の大学に合格していた。
「限界まで高い学歴を」と思っていた私にとっての第1志望とは、すなわち身の丈に合わない大学ということだ。
かくして私は、地元を離れて初めての1人暮らしと大学生活を始めた。

1年間はおよそ上手くいかず。
周囲の個性や賢さに打ちのめされる。
自転車に乗れなかったため、生活の効率が悪い(夏休みに実家で練習したらできるようになった)。
クラスで上手く友人を作れない。
サークルなりバイト先なり、クラス以外での自分に合う所属先をうまく見つけられない。
さすがにそろそろ欲しいよねぇと思っていた交際相手もできない。
大学合格の成功体験でせっかく自己回復できたぶんを、早くも食いつぶそうとしていたのだ。

不安を鎮めようと「恋人プレイ」

大学1年生も終わろうとする頃に、人生で初めての交際相手ができた。
秋から所属していたサークルの先輩だ。
先輩はろくに話もしないうちに勝手に私に目をつけていたらしく、私と話すきっかけを作ろうと、ある日食堂でその場にいた私を含む1年生全員にパフェをおごった。
1年生たちは気持ちよく先輩をもてはやし、私もその輪の隅でへらへらと薄笑いを浮かべていた。

会話をするきっかけを作ろうというのが「1年生全員にパフェをおごる」で、見え見えであざといそれを先輩は「外堀を埋めるという立派な戦略だ」のちに言った。
さらに、その勝負の会話に選んだトピックは「センター試験の点数」だった。
「つまんねぇ男だな」という第1印象は、会わなくなって何年も経つ今も覆っていない。

その日の夜、先輩は私にメールを寄越してきた。
そして一緒に出かける約束をしてデートをして、付き合うことになった。
ここからは先輩を「パフェ男」と呼ぶことにする。

私はパフェ男に惹かれたのではなかった。
大学生になって1年も経とうとしているのに、彼氏の1人もいないという状況に焦っていただけのことだ。
そこに恋愛感情があろうがなかろうが、私は彼氏が欲しい、パフェ男は私と付き合いたい(実はパフェ男も、女なら誰でもよかったのかもしれないが)、付き合えば利害は一致。悪事を働いているのではないと思った。

またパフェ男は、スマートと対極のところにあり、私と同じくモテとは程遠かった。
「センター試験の点数」の例に挙げられるように、会話の引出しは少なく、お勉強、高校時代までのこと、食事(の量)のことなどと面白味もない。
デートプランを考えることを「プロデュースする」と言うなど、語彙が気持ち悪いうえにどこかズレている。
デートに大きなトートバッグで現れ、食事をしたレストランで丸々1冊のホットペッパーを取り出す。
これが1回のデートを終えるまでのことだ。
当時の私は、「私にはこれくらいがちょうどいい」「つまらないくらいが長続きしそう」だと考えた。
かくして私は、パフェ男を使った「恋人プレイ」を始め、自己肯定感の維持に努めた。

私と別れないお前も、お前と別れない私もバカだな

結局まっとうな恋愛とか恋愛関係というのがなんなのかは未だによくわからないが、ことパフェ男に関しては、独占欲ゆえの嫉妬こそあれ、相手を思うだけで幸せだとかいう優しい感情や、相手のためならなんでもできそうだかいう万能感を強く抱いたことはたぶんない。
当初から予想していた通り、私はパフェ男には不満ばかりで、本気の嫌悪感を抱いたことさえあった。

けれども私が必要としていたのは「パフェ男」でも「恋人」ですらもなく「交際相手がいるという状況」だけだった。
およそ世間の抱く大学生像のように、週末に繁華街をデートする、一緒に自分の部屋で過ごす、旅行やイベントに出かける、といった一連のイベントをこなすことが重要だった。
つまらないことで喧嘩をふっかけるのも私のほうで、それも「恋人プレイ」の一環だった。
相手が代わってもいいのだけれど、パフェ男を失った後、また別の彼氏ができるという自信がなかった。
だから自分からはパフェ男に別れようと本気で言ったことはない。

この間だけでも私は随分パフェ男を振り回し傷つけたけれど、パフェ男の方からも別れようとは言われなかった。
パフェ男は私の本心を見抜いていなかったのだろうか。
見抜いていたうえで好かれていたのか、あるいはパフェ男が求めていたのも同じく恋人プレイだったのか。
今更確かめようもないが、両者ともバカだったというのは間違いない。

大学時代後半

そもそも働きたくないでござる

私の学生時代の就職活動は、3年生の夏頃からインターンが始まり、12月には選考の本番がスタートしていた。
大学院への進学は難しそうだと判断した私も、就職活動に乗り出すことにした。
しかし、就職して特にやりたいこともない。
そもそも働きたくない。働き続けられるという自信もない。
それらに加え、諸能力の低さ、性格の腐敗も見抜かれていたのだろう、全っ然うまくいかない。
1次面接どころか、エントリーシートだけで落とされることも多々あった。
やっと内定を得た1社は、3大メガバンクのうち1つだった。
当時大量採用を行っており、私の通っていた大学ならほとんど落とさないと言われていたところだった。
疲れ果てた私は、そこで就職活動を終えた。

メガバンクなんか、無駄な飲み会が多い、いつでもスーツを着ていなくてはならないなど、堅く古く、業務量も多い。勉強量も多い。転勤も多い。
そもそも金融になど興味はない。
どう考えても長くは持たないであろう就職先だが、しかし私は就職活動を再開する気になれなかった。
疲れ切っていたというのもあるが、ほぼすべての志望先に叩き落とされた私は、やはり自分を価値なきものと痛感していた。
まだ採用を行っている企業にも、地方公務員試験にも、受かる気がしなかった。
絶望したまま私は、それを押し隠し、翌年4月までの時間をずるずると消費した。

補足とまとめ

私はパフェ男を悪く言ってばかりだ。
欠点ばかりだったというわけではない。たとえば勤勉さ。パフェ男は登録した授業を1コマもサボったことがないと豪語していた。
けれどもそれは私とは関係ない。長所ではあるけれども、魅力ではなかったのだ。
あとは「素朴」とか「正直」といったところか。
しかしそれらも私にとっては、醜く映ってばかりだったところを、無理に美点のように言い換えているにすぎない。
楽しい思い出もあったかもしれないが、思い出せない。
つまり、会わなくなって何年も経つが、私は未だにパフェ男を嫌悪しているのだ。
拭えない嫌悪の理由はおそらく私のパフェ男に対する高慢さであり、突き詰めるとそこにも最早失われた自己肯定感があるようだ。

次回の考察にはそのあたりも大きく関わってくる。

続き:自己肯定感の低い人間は、好きでもない相手と結婚も離婚もするし家だって買う3

自己肯定感の低い人間は、好きでもない相手と結婚も離婚もするし家だって買う1

「自己肯定感」という言葉が広く知られるようになったのは、ドラマ『逃げ恥』の影響だと思う。
みくりさんが平匡さんを評して「自己肯定感が低い」と言うなど、この言葉がたびたび使われていたのだ。

そもそも、自己肯定感とは「自分は大切な存在だ」「自分はかけがえのない存在だ」という感覚・感情のことだ。
自分を高く評価している、ということではなく、「長所も短所も含め、あるがままの自分を受け容れている」ということらしい。

参考:自己肯定感とは – はてなキーワード

「自己肯定感が低い」。
ここまで私を端的に表現できる言葉は、ほかにないかもしれない。
おそらく私は、失敗や損が多いほうだ。
関わった人達に損をさせたことも多いほうだ。
なぜそうなったか――追えば追うほど、その先には「自分を無価値に思う心」があるように思える。
そして失敗や損をするたびに、自分の存在をさらに認められなくなっていく。

当シリーズでは、「自分の在りよう」と「失敗や損」と「自己肯定感」について、5回にわたって時系列順に考察してみる。
危機感を高めてこうならないための対策を講じるなり、下を見て安心するなり、とにかく誰かの役に立てばいい。
初回は、幼少期~高校時代を取り上げる。

生い立ち

家族

地方都市で、サラリーマンと専業主婦のあいだに産まれた1人っ子だ。
金銭的には少し余裕があったらしく、産まれたときから一軒家に住んでいた。
祖父母は父方・母方ともに遠方。

主に子育てをしていたのは母だ。
母の性格や私が母に向ける感情は、けっこう複雑で(というか自分でもよくわからなくて)ここには書き切れないので略。
当シリーズに登場したときに滲み出るものを感じ取っていただければ幸いだ。
父はたまに遊んでくれるなどしたが、子育てに関しては美味しいところだけを持っていっていたようにも思える。

両親(主に母)については、こちらの記事が詳しい。

毒親認定したいけどできないなら、ひとまず「準毒親」と考えてみる?

性格・性質

学力だけは周りより優れていたが、賢いのではなく、お勉強という競技が得意だったというだけ。
小学校低学年までは運動もそこそこできていたが、その後運動能力は低下し、クラスで最下位争いするレベルに。

すぐ手が出る(これは小学校低学年までだけれど)、独善的で自身の価値観を周りに押し付けがち、暇さえあればマウンティング、陰口が多い(糞チキンなので正面切っては言えない。それが周囲をさらにイラつかせる)など、幼いながらに性格はかなり腐っていた。

幼稚園・小学校時代

近所の子たちのほとんどが通う、近くの幼稚園に入園した。
家と公園と習い事という世界でだけ生きてきたそれまでは、幼稚園の年少組までは人並の自己肯定感はあったと思う。
しかし壊滅的性格に加え、病弱で遅刻欠席早退も多かったため、友達はできにくかった。
早くも私の自己肯定感は傾き始めた。

さらに手先が不器用で、ちょうちょ結びやきれいな泥団子作りができない。
折り紙を折っても、できたものはなんか汚い。
そういったことを特に女の子に馬鹿にされたりする。

年長組のときに年中組の男の子に通せんぼされ、いきなり腹を殴られたこともある。
何となく目に付く子だったような気はするのだけど、私は彼の名前を知らなかったし、喋ったこともなかった。
「いるだけで相手を不快にする」何かが私にはあったのかもしれない。
(似たようなことは大人になってもたまにある。さすがに殴られまではしないけど)

小学校は地元公立。性格の破綻ぶりはそのままに、高学年まで来てしまった。身体だけ丈夫になっていた。
それまではなんとか優しい子(あるいは気の弱い子)のグループに入れてもらって、表面上は孤立を免れていたのだけど、それも追いつかなくなっていった。一方的に親友と思っていた相手にもついに見捨てられ、完全に孤立。
「今のままじゃヤバい」と自覚し、行動を見直し始めた頃でもあったが、遅すぎたのだ。

マウンティング・ミニゴリラ

私の壊滅的性格による行動の例を、1つ挙げておく。
授業中、教師が「○○わかる人~?」と発言を促し、児童が「はいっ!」と挙手する場面。
このとき私は、
「ハイハイハイハイハアアアアァァァァイッッッ!!!!!」
と大音声を上げ、当てなければお前を殺して私も死ぬとばかりに、血走った目を剥いて教師に猛烈アピール。もはや圧迫。脅迫。これが毎回。
当ててもらえれば得意げに発言するだけなのだが、当てられなければ本気でむくれる。
当てられた子の答えが不正解なら、「えーっ」と言ってみせたりひどいときには囃し立てる。

実はこれも自己肯定感が低いがゆえの行動だったと、私は考える。
クラスメイトと教師に対し、「どんな問いにでも秒速で正解を出すことができる」と誇示することができる。要はマウンティングだ。
「さっさと次に進めろ」「お前らのトロいペースに合わせて授業を受けるなんざ退屈なんだよ」という意思表示でもある。これもマウンティングだ。

さすがにこれは、ダセェし疲れると思って小学校高学年でやめた(迷惑だと気づいてやめろ)。

もう落ちてる、自己肯定感

無価値な私を車の脅威から庇うため車道側を歩く母の行為を愚かだと思ったのは、小学1年生の頃だ。
私の人生の幸福と不幸をまとめるとマイナスになるから「ゼロのまま存在しないほうがマシだったじゃないか」と気づいたのは、小学2年生の頃だ。
小学校時代にはもう、日常がちくちくと、そして孤立が徹底的に、私の自己肯定感をブチ落としていた。

中学・高校時代

「このまま公立中行ったらいじめられるヤベェ」と考え、大学付属の中学校を受験・合格。
お勉強という競技が得意でよかった(定員割れしてただけ)。
高校も第1志望の進学校に合格できた。

この間、性格はわずかながら改善し、現在まで付き合いのある友人もできた。
それでも完治したわけではない。
陰口癖やマウンティング癖は治らず、人を傷つけたり不快にしたり。
心当たりもなく嫌われる現象も、たびたびあった。
自己肯定感が人並みに回復することはなかった。

負の無限ループ

当時最も怖れていたのは、孤立だ。孤立が怖くて、自身の意思を殺した。
特にダメージを被ったのは、高校時代の、全員入部が義務づけられた部活動だ。当時の友人と離れるのが怖くて、入りたくもない部に入り、転部したくてもしなかった。
嫌われることを怖れ、できもしない部長職を引き受けた。
ストレスゆえ爪を噛み、白いところは全部なくなってしまったし、頭全体に膿をともなう湿疹ができた(爪噛みをやめられたのはここ2~3年のことだし、頭皮は未だにちょっと痒い)。
部活動のことを思い出そうとすると、今でも腹が痛くなってくるし後悔の念に苛まれる。たぶん、マジのトラウマ。カウンセラーなどの専門家がいないところでは思い出してはいけないものだと思うけれど、それでもたまに襲ってくる。
何があったかを具体的に覚えてはいるが、自分を痛めつけたできごとは書き切れないほどあるし、決定的ないくつかを選び出すこともできない。
そもそも、思い出すこと自体が辛い。
ただごめんなさいと思う。部員に? 顧問に? 折り合いの悪かった副部長に? それとも自分に? それすらもよくわからない。
とにかく高校時代の部活動が浮上しかけていた自己肯定感を再び地に叩き落としたことは、間違いない。

危機感! 危機感!! 危機感!!!

そして私に訪れたのは、危機感だ。
身体能力が低く、体力にも乏しい。手先も不器用。
芸術の才能など、食っていけるだけの特殊技能もない。
友人も少ないし、ついでにモテもしない。見た目がよいわけでもない。
コミュ障だし、人脈作りとか絶対無理。
注意力も判断力もリーダーシップも決断力も交渉力もない。
およそ一般的な仕事に必要そうな能力にも著しく欠けているのだ。
いいところは、お勉強という競技が少し得意なことだけだ。
生きるには、まぐれでもなんでもいいから、定年まで働かせてもらえる企業に入れてもらうことだ。
仕事なんてつまらなくてもいいし、周りに比べて自分が劣っていてもいい。
1社でも引っかかるために、なるべく有名で偏差値の高い大学に入らなくてはならない。
それができなければ、私に生きる資格はない。
だから、お勉強するしかない――

かくして私は、ネガティブ極まりない理由で受験勉強を始めた。

補足とまとめ

すぐにわかった方もいるだろうが、私は発達障害(ADHD;注意欠如・多動性障害)かもしれない。
歳をとるにつれ、状態は改善してきている。
気づいたのはごく最近のことで、現時点で生活に大きな支障はきたしていないし、近くに大人への診断ができそうな医師もいないので、診断は受けていない。
グレーゾーンという状態だ。

参考:主な発達障害の定義について – 文部科学省

授業中の挙手アピールが激しすぎるといっても、席を離れて歩き回るわけではない。
計算ミスは多いが、忘れ物はほとんどしない。
よく居眠りをするが、お勉強はできている。
すぐ手が出るとはいっても、もっと乱暴な子はいくらでもいる。
だから、問題視されてこなかった。

発達障害者支援法が施行されたのは2005年で、そのとき私はすでに大学生で親元を離れて生活していた。
だから、支援の手は間に合わなかった。

参考:発達障害者支援法の施行について – 文部科学省
発達障害者支援法の一部を改正する法律の施行について – 文部科学省

周りに気づかれず適切なフォローを受けられなかったことを嘆いているのではない(仕方のないことだったから)し、本当に障害だったとしても、自分の行動や思考の、どこまでが性格ゆえでどこからが障害ゆえかもわからない。
けれどももし早めに診断されていれば対策もできただろうし、上手くいかなくても「仕方ない」と受け容れられることもあっただろう(なんでも障害のせいにするつもりはないが)。もう少し楽に生きていただろうし、人を傷つけたり不快にさせたりすることも減っていただろう。

続き:自己肯定感の低い人間は、好きでもない相手と結婚も離婚もするし家だって買う2

友よ、どうか産まないで

身勝手すぎてマジなトーンではとても口に出せないが、これが本音だ。

私には友人が少ない。両手の指で数えきれるくらいだ。
年1回、その数少ない友人のうち、数人と集まっている。
毎回全員が集まるわけでなくその面々は少しずつ異なり、集まり方にしてもディナーだったりランチだったりお茶だけだったりする。

彼女たちはみな私と同じく、30を過ぎている。
けれども私を含め、子を産んだ人は1人もいない(今のところ、私が知っている限りでは)。
結婚して数年経つけれど子をもっていない人と、独身の人。
私は全員にタイトルの言葉をぶつけてしまいたいのだ。

私のこと

私はたぶん、この先も産まないだろう。
「産めないから」ではなく(検査を受けたわけではなく、実は産めないのかもしれないけれど)、「産みたくないから」であり「育てたくないから」。
「心理的に産めない」と言い換えることもできるかもしれない。

なぜ産みたくないのかと問われると、即答できない。
「そもそも産みたいという気持ちがない」ところからスタートしている気がするのだが、さまざまな要素が絡まりまくり、自分でもよくわからないことになってしまっているのだ。
また別の機会に考察しようと思う。
(ありがたいことに、夫は理解してくれている)

そもそも、話すきっかけすら作れない

さて、友人たちの話に戻る。
私を除く友人たちは地元を離れ、東西に散っている。
だから集まるのは、彼女たちがほぼ同時に実家に帰省する年末だけになるのだ。

私だけは地元に残っているから集まりには毎年参加できているのだが、この毎年末の集まりで子供の話題が出たことは1度もない。
話をしたいけれど言い出せない、話したくないのかは、よくわからない。
けれども1つ想像できるのは、彼女たちが自分の実家で、先に訪れた夫の田舎で、「子供はまだか」攻撃を受けているということだ。
はっきりと言葉にして言われなくても、そのような空気を感じ取っているかもしれない。
あるいは、実家側が「子供はまだか」の雰囲気を消す努力をしてくれている、もしくはそもそも「子供はまだか」と思っていないとしても、実家にいるだけで「子供はまだか」と言われているように感じてしまうかもしれない。
彼女たちの心は少なくとも私のよりは丈夫だろうけれど、こうしたストレスを無視できるほどには強靱でないだろう。

誰かがきっかけを作れば、そのストレスあるいはこれから攻撃を受けることへの憂鬱のはけ口として、怒濤のように喋ってくれるかもしれない。
でも、何に傷ついているか(産んでいない理由とか、親類の言葉とか)、思い出し喋ることで気分が和らぐか余計に傷つくかは人それぞれだし、そもそも話題にすらしたくないと考える人だっているだろう。
私は彼女たちには嫌われたくない。
だから、きっかけを作ることすらもできなかった。

私が怖れていること、その1つ

もともと私たちの連絡はマメではない。
年末集まるときの打合せと、本当に伝えたいことがあるときくらい。
だから、誰かが妊娠したとき、その人が自ら教えてくれるか否かも予測できないのだ。

繰り返すが、集まりの会場は地元で、住んでいるのは私1人だけ。
だから、「今年もやるよー」という第一声を上げるのは、私だ。
もし事前に妊娠の連絡がなければ、妊娠を知るのはそのときだ。
「実は私妊娠してるから、禁煙のお店希望」とか「悪阻がひどくて行けない」とか。
集まりは1年おきだから、「実は産んだばかりで……」というのだってありえる。
打合せの時点で知らせられなくても、会ったら告げられるかもしれない。
知れば嬉しいし、全力で祝うけれど、同時に心の底にべっちょりしたものを感じるだろう。

私はそれが怖い。
怯えながら、今年もやろう、楽しみだねと声を上げる。
返事を待ちながら、誰も孕んでないで産んでないでと祈る。

怖い理由は、産んだら単純に会いにくく(会えなく)なるからというのもあるけれど、それだけではない。
よく言われているが、産み育てる者とそうでない者の隔たりは大きい。
行動範囲しかり、交友関係しかり、価値観しかり、関心事しかり。
産む前の彼女と産んだ後の彼女は、もう別人のようになってしまうのではないか。
別世界の人になってしまうのではないか。
必ずしもそうなってしまうわけではないけれど、やっぱり怖いのだ。友人が自分を置いて、彼岸に行ってしまうようで。

恐怖は年を経るごとに大きくなっている。

やっと1人とだけ話せたんだけど

あるとき、友人のうち1人と私との2人きりでランチをすることになった。
彼女も結婚していて、子供はいない。
彼女はもともと家族の1人を良く思っておらず(話を聞くかぎり、枕詞に「毒」をつけたくなるような感じだった)、またそのとき実家が問題を抱えてもいた。
彼女は猛烈な勢いで愚痴を言った。特に折り合いの悪い家族に対しては、結構な呪詛を吐いていた。
「帰省なんかしない方がいいかもしれないね」と私は言った(これは「ほかの面子には会いたいから」と却下された)。私自身、実家や親戚に対して少なからず悪感情を抱いているから出た意見でもある。
そしてそのついでに私は、「私も親戚とはどうしても必要なとき以外は会わないようにしている」「実家は近いから会う場面も多いけど、必ず夫に同席してもらっている。特に母とは2人きりにならないようにしている」と言った。
なぜなら、「言われたくないことを言わせないようにするため」だとも。

この「言われたくないこと」という言葉に彼女は反応した。「子供のことだよね!?」と。
そしてまた、家族への愚痴(ちなみに私は彼女の愚痴が好きだ。可愛らしい顔から容赦のない正論が飛び出してくるのが小気味よい)だ。
それによってわかったのは、
・彼女もまた、「早く子供産め」攻撃を受けていること
・現状、産みたいとは思っていないこと
・しかし実家の圧力に負けて「産んだ方がいいのかな」と考えてしまうこと
だ。言外に、「話したかった」という雰囲気も感じた。
私は「産みたいと思わないなら産むことないよねぇ」と言った。本心である。
でもそれは単なる上澄みでしかなくて、底のほうはもっと汚い。

私が怖れていること、もう1つ

重ねて言うが、私はたぶん産まない。
そして夫は私より年上だ。
寿命だけで考えれば、遺されるのは私だ。

兄弟姉妹もいない。甥・姪など年下の親戚ができる可能性も低い。
夫が先に行ってしまえば、私はマジで孤独だ。

件の友人たちはみな、差の大小はあれど夫が年上だ。
私同様に、遺される可能性がある。
兄弟姉妹はいるが、甥・姪は果たして老人となった彼女たちを助けてくれるかはわからない。
つまり、状況としては私と近いといえるのだ。
そういう人が身近に、リアルな、実感できるものとして存在してくれているだけで、私はわずかだが安堵できる。
べつに子ナシ同士、老後一緒に暮らそうとなどというわけではない。今のまま存在してくれるだけでいいのだ。
けれども、彼女たちに子が産まれ、つつがなく育てば、私の小さな安心は喪われていく。

でも、そんなこと言えるわけない。
私の安心のために産まないでなんて。
言えば、彼女たちの人生を甚だしく軽んじることになる。
だから私は口を噤む。

でも、次に集まったときは、愚痴くらいは聞かせてほしい。
言いたくないなら、言いたくないという事実を知れるだけでいい。
数ヶ月後の集まりに向けて、そのきっかけとなりそうな言葉を、今から考えてみたりする。

北条裕子「美しい顔」を取り巻くいろいろをつつき回す

第61回群像文学新人賞を受賞し(「群像」2018年6月号掲載)、第159回芥川賞候補ともなっている 北条裕子「美しい顔」について。
東日本大震災で被災し、母を喪った女子高生視点での物語だが、震災を描いたノンフィクション作品や被災者の手記からの流用疑惑が指摘されてきた。

7月10日現在、この件はすでに一般ニュースとしても知られ、文学の世界でだけの話ではなくなってしまった。
しかも、作者・北条氏は謝罪コメントを発表済だ。
けれども「小説のこととか書きます!」といってこのタイミングでブログを始めてしまった以上、今更ながら書かないわけにはいかなかった。

読む前に

経緯(7月10日現在)

5月、「美しい顔」が掲載された「群像」6月号発売。
6月、第159回芥川賞候補作品発表。
この頃から、当該作品への流用・剽窃疑惑が注目されたようだ。
7月、流用元とされた石井光太「遺体 震災、津波の果てに」の出版元である新潮社がコメント。
「群像」誌の出版元である講談社が経緯説明、当該作品の無料公開など。
9日には、作者・北条氏の謝罪コメントを公開。
出版社名義での謝罪コメントはまだ。

どういう立場からものを言うかというと

私は低級の作家ワナビだ。
いくつかの新人文学賞に応募をしているが、芳しい結果は出せていない。
また、作者・北条氏と同年代で、同じ女性であり、同じく被災者ではない。
こうした立場で、書く立場からの感想などを述べていく。
盗作かそうでないか、法的にどうかなどは、ここでは論じない。

そもそも「あの震災」を題材にすることって

やっちゃいけない、わけがない。たとえ作者が被災者でなくてもだ。
でもほかのテーマを取り上げるより、いろんな意味での困難がつきまとうはずだ。
まずは応募者として、
「自分以外にも同じテーマを取り上げている応募者が、いくらでもいるはず」
「仮に受賞したとしても、色眼鏡をもって読まれてしまうかもしれない」
と、私ならまず二の足を踏むだろう。
書き手としての自分の実力に相当の自信があって、ほかに書きたい題材がどうしてもなければ、ようやく選ぶかもしれない……といった具合だ。

それに、仮に書き始めたとしてもたぶん縛られてしまう。
資料をあたりながら「これは見た人が傷つきそうだから書いちゃいけない」とか、
逆に「あの資料にこう書いてあったから、主人公もここでこう考えるはずだ」とか、
「いやいや主人公はもっともっとつらいはずだ、こんな描写じゃ生ぬるい」とか。
「のんきに暮らしてきた私なんぞより、もっと大きな痛手を負った人が莫大な数いる」
という事実を勝手に罪悪感のように捉え、作品のオリジナリティも自由度も損ねてしまうと思う。
要は、自分の作品として書けないということだ。
(私の書き手としての実力不足、とも言う)

だから、その出来映えがどうであれ、東日本大震災という題材を取り上げ、被災者たる主人公の心情を真っ正面から書き切ったこと。
これが、「美しい顔」ならびに作者・北条氏の最も凄い点だ。
無神経、図太い、鈍感と言ってしまえばそれまでだ。蛮勇かもしれない。でも、あっぱれな胆力だと私は思う。

ともかく読んでみた

現在、当該作品は講談社のホームページ上で全文無料公開されている。

個人的には、苦手だった。
心理描写、自己陶酔、思いと思いをぶつけあう長台詞の応酬に消耗させられ、後半は頭痛を我慢しながら読み進めるような状態だった。
描かれた感情や主張が誰のものかは知らないけれど、一方的に押しつけられたようで、読み手としては気持ちよくなかった。
(楽しめる「気持ち悪さ」ではなくて、悪い意味での「気持ち悪さ」だ)

それに、強調のためと思われる反復表現の多いこと。しかもだいたいが長い。以下例。

 もしもここがパリのシャンゼリゼ通りだったとしたらどうなの。あなたは今とおんなじ顔をしているの。もしもこの場所がニューヨークの五番街だったらどうなの。あなたはそのおんなじ顔をぶらさげて、その粘り着くような歩調でもって今ここを歩いているの。もしもこの場所が東京銀座の八丁目だったらどうなの。あなたは安い飴玉を舐め回すようなそのざらついた視線をもってして私を見ているの。もしあなたの耳に入ってくる苦痛や悲しみの叫びがこんな訛りのきいた東北弁なんかではなくてフランス語やドイツ語やスペイン語だったりしたらどうなの。ニューヨーク訛りの独特な英語だったとしたらどうなの。あなたはその憎たらしい同情寄りの微笑を含ませた唇を半開きにして被災者に何か声をかけてやろうかと企んだりしているの。

こういうのが、作中何箇所もある。
多すぎて効果が薄まっているし、何より読んでいて疲れる。

文体も「女子高生がちょいと下品な言葉とか使ってイキッてる」域を出ない、新人賞の応募作としてはよくありそうなものだった。
描写も特に目を引くようなものはなく、動けない自分(主人公)を「銅像のよう」だとか、ちょっと凡庸なくらいに感じた。

ディテールの甘さも気になった。たとえば、

 絆、希望、助けあい。美しい言葉たちが輸入されてきた。絆、仲間、頑張ろう。清潔な言葉たちが支援物資とともに全国各地から入ってきた。海水が、やさしさを日本全国から運んできてこの田舎町を満たした。波が去ったらまわりがまるきり善の海になっていた。揺れがおさまって私があたりを見回したとき、そこに残っていたのは剥き出しの建物の基礎と、私の浅ましさだけであった。私の醜さ、汚らしさだけだった。それらが浮き彫りになって取り残されていただけだった。尊いものはみんな波が連れていった。

ここからは、「津波が日本全国から美しいものを運んできた」→「波が引いたら私の汚点しか残っていなかった」と読める。
でも普通に考えると、「津波が収まった」→「波の引いたあとに、全国から支援物資やボランティアの人、きれいな言葉が運ばれてきた」ではないのか。私の読みが間違っているのかもしれないが、ともかくここで読み手は立ち止まってしまう。

あとは本当に細かいけれど、からだという言葉が、「からだ」になったり「躰」になったり「体」になったり。
冒頭2ページでこれだけの表記揺れがあるから、もしかしたら意図的なものなのかもしれないけれど、特に必要性は感じない。

題材が違っていたら、あるいは候補に残る前に私のような読み手が手に取っていたら、群像新人賞の受賞は難しかったのではないかと思う。

作者・北条氏を勝手に心配する

乳飲み子を抱えているところへのこの騒動。心身の疲弊は相当のものだろう。
いくら「美しい顔」を書き上げたタフネスを持つ(であろう)人だけれど、大丈夫かと思わずにはいられない。

なにより、赤子を抱えていればしばらく書くのは難しいだろうし、今回の件で悪い意味で名前が売れてしまった。
だからどこに出てきても「あの」北条さんとイロモノあるいはハレモノ的な扱いをされることは間違いないだろう。
作家として商業誌で活動するにしても、この件がきれいに片付き(そんなことあるのだろうか)、しかも作品の出来映えが相当でないと、その次はないと思う。

「群像新人賞」も大丈夫なの?

参考文献の言葉をそのまま使ってしまうような作品、それ以外にも私のような者にまで欠点をつつかれるような作品を受賞させてしまった群像編集部の責任は重大だ。
もちろん、受賞しなければ(世間にバレなければ)流用表現をしてもOKなわけではない。群像新人賞に応募するということは、プロとして書き続けたいという意思表明でもあるわけだし。
それでも受賞させてしまったのだから、作者が作家として歩み出せるよう、最低限のフォロー(執筆マナーの教授、参考文献の確認、必要箇所の修正など)は行っておくべきだった。
謝罪コメントだって、まず作者ではなく編集部がすべきだったのではないか。

「あ、このレベルでいいんだ」と思った作家志望者もいるだろうし、デビュー後を当該編集部に委ねるのは不安だと思う作家志望者もいるだろう。
応募作のレベルが下がり、また自信や実力のある応募者は、他の新人賞に流れてしまうのではないか。
(他の新人賞も一緒になめられる、というおそれもある)

北条氏に今後、この件を吹き飛ばし、誰も文句を言えなくなるような作品を書かせられるのなら、とりあえず彼女への責任だけは果たせるのかもしれない。
それにしたって、参考文献の著者や取材対象となった方々への責任を果たしたことにはならないのだけど。